呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

「生きろ。」

https://welcomejwithintention.hatenablog.com/entry/2021/11/01/174707

また、けんたさんの記事を読んで、思い出したこと。

レッスン167.2.3

「しかし、死という想念はさまざまな形をとるということをすでに学んだ。

その想念は、至高の幸福ではないすべての感情に横たわる単一の想念である。」

これを読んで、完全に平和で自由で、幸せでないときは、

死(自我の思考)を信じているから、本当には生きてないんだ、

と感じた。

もののけ姫で、「生きろ」というコピーがあり、

Tさんが、

「『生きろ』と、わざわざ言うってことは、わたしたちは、そもそも、

生きてないわけです。すでに生きているなら、生きろ、なんて言う必要はないわけだから。」

と書いていた。

その時は、いまいちわからなかったけれど、今は、感じられる。

幸せで、生き生きとしてなかったら、心が死んでる。

心が死んでるのは、怖がってたり、躊躇したり、惨状を嘆いたり、

遠慮して我慢したり、しがみついたり、防御したり、してるから。

過去の後悔、未来の心配。

さっき、子ども園の横を通ったとき、子どもたちを眺めていた。

子どもたちは、未来の心配なんかない。

今を楽しむことだけ。他人にどう見られるか、恥ずかしいか、迷惑か、

気まずくなるか、とか、世間体を守らなきゃ、

そんなこと、気にしてなかった。

自由だった。

子どもたちのほうが、どうりで生き生きしてるよね。

子どもの頃、音楽やダンスの良さが分からず、

あまり好きじゃなかった。

それは、喜びとか、「生きている感じ、躍動感」を感じて表現してるのかって、後で気づいた。

L167を読んで、わずかな不幸感、被害者感や、不安、損失感を

感じているだけで、どれもみな死を認めているとあって、

「いや参ったなー。じゃあオレは、どんだけ死を信じ込んでることになるのやら。」と思った。

コースの、妥協がない、厳しい基準を示されて、今の自分を、

「いや、今の君は、何もわかっちゃいないよ。まだまだ、ぜんぜん。」

と、言われたようで、オイオイ、マジかよ。勘弁してくれよという感じ。

だから、けんたさんのブログは、

「わたしは何も知らない」なんだな。

最初、なんて謙虚で、へり下った名前だ、すごいな、と思った。

おれは大好きな、千と千尋の曲の歌詞からブログ名をとっちゃって、

「あっ、やべぇかな。もっと、真剣な、謙虚な名前にした方がいいかな」

なんて、思ってた。

でもそこにしか、自分の世界観が、間違えているのを望むしか、

救いや希望はないってことに、気づいて実感したのかな。

デイビッドたちは、本当に、生き生きしてる。

あの感じ。

ハウルに出会って、心が若返って、顔が輝いて、

生き生きしたソフィーのように、おれも生きたい。

そんな、気持ちを、分かち合える仲間に出会えただけで、

本当に、心底から嬉しい。幸せ。本当におれは、恵まれてる。

涙が出てきた。

メルボルンで、コースのギャザリングを開いている、

Cateさんから、FBで、返信が返ってきた。Holy childと言ってもらえた。

みんな、本当に、ありがとう。

引用は、『奇跡講座ワークブック編』中央アート出版より