呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

Noteに移行するかも?

https://note.com/ratchet
みんなNoteに移行し始めて、

「あなたはまだNoteに行かない仲間だよね」

みたいに思っていた人たちも次々にNoteに行っちゃって

なんかはてなブログは慣れ親しんだ古巣で安心できるけどちょっと狭い

みたいに感じはじめて、

Noteで書き始めました。

プロ野球選手がメジャーに挑戦する時の気持ちがちょっとわかる笑。

古巣のチームを旅立って未知の新天地に行くみたいなあの感じ。

野球は巨人がセリーグなのかパリーグなのかもわからないくらいだけど。

不毛感と抵抗

コース関係の赦しだの感情がどうだの

秘密を持たないだの、

もうお腹いっぱいっていうか

飽きたわ!

今日は気分じゃない。

みたいな感じで朝までゲームとか配信見て、

起きた後も同じだった。

ジェニーさんとかリッキーたちがリトリート動画を上げたり

ジェイソンのラジオとかあったけど

ここ数日あまり見る気にもなれず。

勉強会を更新しなかったのも同じような感じはあるけど。

ゲームとかして暇を潰しても

けんたさんが去年のライブ配信で言ってたみたいに

不毛感がつきまとう。

本当の喜びだとか幸せはこれじゃないとどこか分かってはいるけど、、

みたいな沼ってる感じで

気が少し重かった。

自分がダメな方向に行っているというか

停滞している感じ。

さっき『天国から離れて』(中央アート出版)をなんとなく開いたら310P上の段に

「不毛感」という字があって、

エスがビルに与えた祈りの文だった。

「わたしはこの道が喜びに満ちていることを認識しようしてきませんでした。

不毛感や不満、時には苦しみを持ってして

反応するかわりに自分をありのままに云々、

(中略)

わたしははっきり認識できるはずのものを認識せずにいようとして

いるに違いありません。」

とあって、

今の自分に見事ピッタリだった。

自分が意欲がないことについて「抵抗を認めるコース」って言葉を

ある人が伝えてくれた。

ビルの祈りの文も、抵抗している事実をありのままに認める、

みたいなニュアンスに感じられて

なんだこれでいいのか

と思えて気が少し軽くなった。

エヴァの痛々しさ

エヴァの旧劇場版を初めて見た時は

呆気に取られて全身が緊張して動けないみたいな感じだった。

弐号機がやられるシーンのグロテスク方面の痛々しさも

めちゃくちゃにショッキングだったけど

シンジとアスカの喧嘩・首絞めシーンの痛々しさ・

自分を見ているような不快さ、

自分のことを鋭く咎められてあげつらわれているあの嫌な感覚

がめちゃくちゃに生々しくてリアルで。

そのシーンはアニメ作画で、

直後に声優さんたちと群衆の実写シーンに切り替わるけど、

実写作品でもこれほど痛々しさを生々しく表現した作品は

果たしてあるのか。(たぶんあるんだろうけど)

シンジが「ぼくにかまってよ!ぼくをひとりにしないでよ!

ぼくに優しくしてよ!

ぼくを傷つけないでよ!」

とか

アスカが「あんた他の人が怖いからアタシに逃げてるだけじゃない。

いつも自分のことしかココにないのよ!」

「あんただけとは絶対イヤ」

とか

たぶん誰もが自分の弱みというか

痛々しさとか自己嫌悪を感じる部分をひたすら鋭く

えぐりだされる感じ。

押井守作品の冷徹で落ち着いた・一貫して客観的で

洗練された雰囲気とはまるで逆。

庵野さんは超主観的で、

だからこそ「生の自分自身」を見せつけられて

どっぷり感情移入する(だからしんどい)

 

今は何度となく見たから慣れたけど

初めて観た時は「2度と見たくない・見る気になれない」

みたいな感じだった。

喧嘩シーンでアスカは激しく怒って躊躇わずに言い返すけど

シンジは一言も言い返せずに

アスカに蹴られたり熱いコーヒーをこぼされたりで

下を見て目を合わさずに、

突然キレてアスカを殺そうとするシーンは

「怒りを自分でも気づかない内に押し殺して抑圧してるから

相手が怒って自分を責めている時は

ひたすら沈んでいるけど

後になって突然溜まってた怒りが浮上してくる」

って言う自分のパターンに見えたから

痛々しかったのか。

男性で

エヴァは見られない。主人公がムリだから」

って言う人たちがいて、

Youtube のコメント欄でも

シンジの弱々しさ・虚弱さ、女々しさ・情けなさ

に我慢できず虫唾が走るみたいなコメントがあったけど

自己嫌悪とか不快感を催す生々しさがすごい。

自分の父もだけどたぶん「強い男・弱みを見せない」の人格で生きてきた人ほど

シンジは見てて気持ち悪くて耐えられない。

シンジを見てられないと言った人の1人にウメハラ氏がいるけど、

ウメハラはガイル使いだったゲーセン時代ポーカーフェイスなあまり

ついたあだ名が「すまし顔ガイル」だった(最近は加齢と配信慣れでほぐれた)

 

シンジの臆病で気が弱いと見せかけて実は恨みとか

攻撃衝動とか殺意があるから噴出するけど

普段は表に出せない

みたいな陰湿さもリアルで。

主人公なのにここぞで絶望して無気力になるところも。

アニメだからこそここまで表現できたのかもしれない。

普段実写のドラマとかでよく見る演技とはまるで違う。

前に書いた『オーバー・フェンス』の

蒼井そらオダギリジョーと寝た後にパニックになるシーンは

本当にリアルで見てて内臓から全身が緊張する迫真さだったけど

シンジみたいな「屈折した弱々しさ」はちょっと他では見ない。

 

 

正直に言いたくない気持ち

自分がムッとしたり何かについて

赦せないと感じても

それを打ち明けようと思うと何か怖くて、

言ったら負けみたいな屈辱感もあったか、

ノドにつかえるような感じと腹にググッ...と抵抗感だった。

家族で出かける時、

父はコンビニとかに寄ると平気でコーヒー缶とかゴミを捨てていた。

それを見る度、

「あっこいつまたやりやがった!」

と内心呆れて怒っていた。

「家庭ゴミは持ち込まないで」って書いてあるのに。

 

それを抵抗感を感じながらある人に打ち明けると、

「何でダメなの?」

→自分:お店の人に迷惑がかかるから。

ゴミ出しの作業が増えて疲れるだろう。

仕事が増えるから。

→つまり、誰かを犠牲にできる、苦しみや犠牲者がリアルだって

信じているってことだね。

と言われて、ハァー...そうかとなった。

レッスン24の攻撃の想念。

 

何で、自分の動揺とか怒りとか恨みとか惨めさとか

「打ち明けたくない」と感じるんだろう?

と思った。

相手に厳しく言われて自分が痛い思いをするんじゃないかとか

何か自分の弱みというかダメなとこを晒す屈辱感(プライド?)

とかあるけど

正直に打ち明けたら、

心まで辿って自我的な信念を手放さざるを得なくなるから

それが何か嫌で屈辱的だった。

確かに負けるというか、、

「自分が間違っていた」ことを証明されて

わからされる、

その瞬間の屈辱感・敗北感はあった。

同時に、安心感というか救われた感じ、

あーよかった、ありがてぇ〜

もあった。

「打ち明けたくない」って、

手放したくない、

それが間違いというか妄想だったって

証明されたくない、

みたいな気持ちなのか。

まるでトイレを我慢するみたいに。

 

信仰と疑い

コースを始めた頃は一番しんどかった。

毎日が疑いと騙されているのじゃないか?

間違った道を進んでいるのでは 

みたいな腹の底の不安と恐怖だった。

疑念に苛まれる時は頭が痛くて地獄のようだった。

マザーテレサの本を読んだ時と、

便が漏れそうでトイレまで必死で我慢する時以外、

もともと信仰のかけらもないような性格だった。

信仰という言葉もなんか洗脳されるみたいで嫌いだった。

ノンデュアリティの界隈とか、

クリシュナムルティでさえ

信仰とかFaithは「時代遅れの迷信」みたいな感じだけど

生きるって信仰以外にもはやない。

みたいな感じで。

それ以外に生きる方法が単にない。

戦国時代とか昔の日本人のキリシタンたちも同じような

気持ちだったのか。

疑いはまだあるけど。

『バケモノの子』

人からの勧めで観た。

劇場公開された時は、なんか観に行く気にならなかった。

「いい作品」の匂いは宣伝から伝わって来てたけど、

親子テーマのいい作品っぽすぎてなんかなー、みたいな感じだった。

公開されてもう何年も経つけど、

観たらいい作品だった。

最初の異世界の街に迷い込むシーンはやっぱり

千と千尋を思い出した。

父と息子。

熊轍が父にソックリだった。

百秋坊というバケモノが

「熊轍はひとりだけで強くなった。

誰の教えも聞かずに。

だから戦い方がひとりよがりで

相手のことを考えられないし、

他人のアドバイスが聞けないんだ。

それがあいつの才能であり不幸だ」

というセリフを聞いた時は、

父にしか見えなかった。

最初から他人より強かったから、

他人に頼らずとも生きてこれた男。

だからそれ以外の生き方ができないし

コミュニケーションが一方的に怒鳴りつけるだけ、

なのも全く同じ。

自分の弱いところを見せられない不器用さも。

一郎彦という人間の超能力者の男の子は、

赤ちゃんの頃に渋天街の名士のイノシシ獣人に拾われて育てられて

「人間の自分は父みたいな強い頼りにされるバケモノになれない」ことに悩んでいた。

父のようには強くはなれない自分。

一郎彦はバケモノであることにこだわり続けたけど、

九太は意外にあっさりと人間の世界に帰る。

今思うと一郎彦は父のように人間として頼りにされる

強い人間になりたかった自分と重なる。

一郎彦の闇って、「自分ではない何かにならなければ」

と思い込み続けたことなのか。

一郎彦は親が自分を捨てたからなのか人間を見下して憎んでいた。

バケモノになれないありのままの人間としての自分が嫌で、

人間であることを嫌って拒絶し続けてた。

それが闇だったのか。

楓が闇に飲み込まれそうな九太に言った「誰にでも闇はある、

私だって。それでももがきながら生きてる」というセリフは

なんかみんな同じ、

みたいなのに触れた感じがしてよかった。

 

 

そう言えば、『ミライの未来』の

不思議な廃墟の中の木が渋天街にもあって

お!とちょっと嬉しかった。

細田監督、いい作品を作ったなーと思った。

インタビューで、

「田舎じゃなくて都会を舞台にした冒険を」

と監督が言っていたけど

確かにバケモノたちのファンタジー世界から

九太が役所に行ったり人間の普通の世界に行き来しているのは

不思議な感覚だった。

無垢さ・愛らしさと弱さの感覚と攻撃

テキストには自我は愛を弱さに結びつけて考えて、

攻撃を強さだと考えるけどそれは本当は逆である みたいな文があったけど、

確かに、

「自分が愛らしい存在としてひたすら愛されている」

のを受け入れたら何か自分が弱くなる感じがする。

誰かからかわいいとか愛しているとかそういう言葉をもらう時も、

自分が何か子どもらしいというか

相手にとって脅威になる攻撃力やパワーがない存在として扱われる

というか。

ワプニック博士が「自我は神への攻撃や破壊を信じることで、

自分は神よりも強いパワフルな存在だと感じている。

なぜなら愛には攻撃や破壊する力はないから」

と言っていたのが妙に腑に落ちた。

弱い犬ほどよく吠えるというけど、

自分もそうだけど誰かが必死に獰猛に攻撃的になるのは

何か外敵に対して自分が弱く無力な脆弱な存在であるみたいな

感覚を感じて、心もとない不安を感じて

「私は無力じゃない。あんたを傷つけて攻撃する力があるんだ!」

みたいな感じで

必死に獰猛で攻撃的な自分を演じるわけで。

ゲイリーレナードの本に

磔刑にかかったイエスを槍で突いたローマ兵が

エスが全く苦しまないのを見て

怒ってさらにイエスを攻撃したけど

それでも全くイエスが苦しまないから理解できずビビったみたいな

内容があったけど、

「あなたは全く攻撃力や罪を犯す能力が全くない

完全に愛と無垢さでしかない存在です」

っていう目で見られたら、

自我のプライドからしたら

ムカつくというか侮辱されたみたいな感じ。

相手より下に見られているというか、

自分の破壊力・攻撃力・強さを否定されたみたいな。

 

小学生の頃、親が共働きだったから民家の託児所

にいた時、

3歳くらいのイタズラ好きな男の子がハサミでテーブル掛けを切り刻むというかなり

危ないイタズラをした時、

こっぴどく怒られて泣くことになるのは分かりきっているのに

なんでこんな悪さを繰り返すのかと不思議だったけど、

「自分は罪を犯せるし、大切なモノを破壊して傷つけて

神を怒らせるパワーがあるんだ」というのを

確認してスリルを味わうというか、

ある種の勝利感を味わっていたのかって。

学生の頃授業中に落書きしたり警察のお世話になった時の自分も同じ

ような心境だった。

これが間違いであることを教えてほしい。