呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

アメリカ流の癒し

去年の記事。ちょっと不謹慎かもしれないけど公開します。

ある日リビングミラクルズのカリコさんの動画を開くと、

老若男女が庭で水着姿になって画面の前に椅子に座ってズラ〜ッて並んでて、

ハァッ!?とびっくりした。

若い男女も高齢男性も高齢女性もいた。

女性はビキニ、男性は水泳パンツ一丁だから、

画面いっぱいに人肌が映る。

呆気に取られて、え、何これ?と思っていると、

「今日は肉体に関連する恥や罪悪感とかがテーマです」

と誰かが言って、

え、アメリカってこんな感じなの?と思った。

日本のコースのグループや勉強会で、

「次回は全員ビキニ・水着でプールに集合ね」

なんて絶対ありえないと思った。

しかもYouTubeで映すんだから、

さすがアメリカは大胆な文化だと思った。

肉体に関連するジャッジ、

恥とか罪悪感にまず直面するみたいな趣旨だったけど

日本とは全然違うなぁ〜と思った。

リサのプロポーズと、『否認の持つ力を決して見くびってはならない』

リサ・フェアさんの動画の未完翻訳がもう一つありました。

シンプルにしたいがためにちょっと物語風に翻訳してあります。

『あなたは間違ったことや、失敗をして、この道を「ダメにしてしまう」

ことは決してありません。

聖霊から見て、「あなたは、ちょっとやりすぎたから、

これはもう手遅れだね。ダメな方向に行き過ぎちゃってるね。」

ということはありえません。

聖霊に解決不可能な難題はありません。』

というテーマのリサのエピソード。

https://youtu.be/TPKz25WToKE

 

『あるとき海外旅行から帰って来たデイビッドは、ウィスコンシンにいた。

シンシナティのピースハウスに本来なら飛行機で帰るところを、

ガイダンスにより、300ドルで買った赤い中古車に荷物を詰め込んで、

ウィスコンシンから、リサと一緒に車旅をして、

インディアナに入って、モーテルに泊まった。

翌朝の早朝、デイビッドが目覚めると、リサはすでに起きていて、

隣のベッドに腰掛け、笑顔でデイビッドを見つめながら言った。

リサ:「デイビッド?」

デイビッド:「うん?」

リサ:「時間だわ。」

まだ眠いデイビッド:「時間?オーケー、時間ね。今起きるよ。」

リサ:「そうじゃなくて、結婚する時が来たのよ。」

デイビッドは目をこすりながら:「それはいいね。で、誰と結婚するの?」

リサ:「あなたよ。」 「あなたと、結婚するときがきたのよ。」

デイビッド:「・・・・・。」

デイビッドは、自分で何を言うか決めることはせずに、スピリットのガイダンスを待っていると、リサも、プロポーズへの返事をじっと待っていた。

スピリットは、デイビッドを通して、リサに、

「でも、あなたはすでに結婚しているよ。」と言った。

リサは、法律上の夫とすでに結婚していたのを都合よく忘れていた。

スピリットは、見逃しがない。

リサは、「オーマイガ、そうだわ、そうだった。」と言った。

リサの夫は大金持ちだった。

夫は精神的に病んで、12年間精神病院にいたので、

全くお互いの連絡がなく、リサはそのことを都合よくすっかり忘れてしまっていた。

このように、リサは夫の存在をすっかり忘れて否認していた。 

ヘレンがある朝、燃えるように輝く文字で、

『否認の持つ力を決して見くびってはならない』

という文字を見たように、

わたしたちみんな、本当の自分であるキリストをすっかり都合よく忘れて、否認しながら、毎日暮らしている。

だから、意識から押し出して除外してしまったことを再び思い出すために、

聖霊のガイダンスに従う必要があるんです。

やっと、シンシナティのピースハウスに着くと、

赤い中古車にセール中の張り紙を貼って、

ピースハウスの外の道に置いたら、

一日で、ちょうど300ドルで売れてしまった。

わたしたちが、ガイダンスに従うときは、オープンマインド、

心を開いて、決めつけないでいる必要があります。

「飛行機で帰るのがだめ?オーケー、なら、どうすることを指示しますか?」という感じです。

リサはパソコンで、離婚するための可能性を探しはじめた。』

その後、精神病院にいた旦那さんに会いに行って、

重度の精神疾患で自分をスターリンとすっかり思い込んでいた

旦那さんが離婚の書類にサインすることはできず、

離婚は絶望的だと思っていたら、奇跡的に旦那さんが正気を取り戻して離婚が成立した、というエピソードなのですが、今は翻訳はここまでです。

 

 

 

       

 

 

Noteに移行するかも?

https://note.com/ratchet
みんなNoteに移行し始めて、

「あなたはまだNoteに行かない仲間だよね」

みたいに思っていた人たちも次々にNoteに行っちゃって

なんかはてなブログは慣れ親しんだ古巣で安心できるけどちょっと狭い

みたいに感じはじめて、

Noteで書き始めました。

プロ野球選手がメジャーに挑戦する時の気持ちがちょっとわかる笑。

古巣のチームを旅立って未知の新天地に行くみたいなあの感じ。

野球は巨人がセリーグなのかパリーグなのかもわからないくらいだけど。

不毛感と抵抗

コース関係の赦しだの感情がどうだの

秘密を持たないだの、

もうお腹いっぱいっていうか

飽きたわ!

今日は気分じゃない。

みたいな感じで朝までゲームとか配信見て、

起きた後も同じだった。

ジェニーさんとかリッキーたちがリトリート動画を上げたり

ジェイソンのラジオとかあったけど

ここ数日あまり見る気にもなれず。

勉強会を更新しなかったのも同じような感じはあるけど。

ゲームとかして暇を潰しても

けんたさんが去年のライブ配信で言ってたみたいに

不毛感がつきまとう。

本当の喜びだとか幸せはこれじゃないとどこか分かってはいるけど、、

みたいな沼ってる感じで

気が少し重かった。

自分がダメな方向に行っているというか

停滞している感じ。

さっき『天国から離れて』(中央アート出版)をなんとなく開いたら310P上の段に

「不毛感」という字があって、

エスがビルに与えた祈りの文だった。

「わたしはこの道が喜びに満ちていることを認識しようしてきませんでした。

不毛感や不満、時には苦しみを持ってして

反応するかわりに自分をありのままに云々、

(中略)

わたしははっきり認識できるはずのものを認識せずにいようとして

いるに違いありません。」

とあって、

今の自分に見事ピッタリだった。

自分が意欲がないことについて「抵抗を認めるコース」って言葉を

ある人が伝えてくれた。

ビルの祈りの文も、抵抗している事実をありのままに認める、

みたいなニュアンスに感じられて

なんだこれでいいのか

と思えて気が少し軽くなった。

エヴァの痛々しさ

エヴァの旧劇場版を初めて見た時は

呆気に取られて全身が緊張して動けないみたいな感じだった。

弐号機がやられるシーンのグロテスク方面の痛々しさも

めちゃくちゃにショッキングだったけど

シンジとアスカの喧嘩・首絞めシーンの痛々しさ・

自分を見ているような不快さ、

自分のことを鋭く咎められてあげつらわれているあの嫌な感覚

がめちゃくちゃに生々しくてリアルで。

そのシーンはアニメ作画で、

直後に声優さんたちと群衆の実写シーンに切り替わるけど、

実写作品でもこれほど痛々しさを生々しく表現した作品は

果たしてあるのか。(たぶんあるんだろうけど)

シンジが「ぼくにかまってよ!ぼくをひとりにしないでよ!

ぼくに優しくしてよ!

ぼくを傷つけないでよ!」

とか

アスカが「あんた他の人が怖いからアタシに逃げてるだけじゃない。

いつも自分のことしかココにないのよ!」

「あんただけとは絶対イヤ」

とか

たぶん誰もが自分の弱みというか

痛々しさとか自己嫌悪を感じる部分をひたすら鋭く

えぐりだされる感じ。

押井守作品の冷徹で落ち着いた・一貫して客観的で

洗練された雰囲気とはまるで逆。

庵野さんは超主観的で、

だからこそ「生の自分自身」を見せつけられて

どっぷり感情移入する(だからしんどい)

 

今は何度となく見たから慣れたけど

初めて観た時は「2度と見たくない・見る気になれない」

みたいな感じだった。

喧嘩シーンでアスカは激しく怒って躊躇わずに言い返すけど

シンジは一言も言い返せずに

アスカに蹴られたり熱いコーヒーをこぼされたりで

下を見て目を合わさずに、

突然キレてアスカを殺そうとするシーンは

「怒りを自分でも気づかない内に押し殺して抑圧してるから

相手が怒って自分を責めている時は

ひたすら沈んでいるけど

後になって突然溜まってた怒りが浮上してくる」

って言う自分のパターンに見えたから

痛々しかったのか。

男性で

エヴァは見られない。主人公がムリだから」

って言う人たちがいて、

Youtube のコメント欄でも

シンジの弱々しさ・虚弱さ、女々しさ・情けなさ

に我慢できず虫唾が走るみたいなコメントがあったけど

自己嫌悪とか不快感を催す生々しさがすごい。

自分の父もだけどたぶん「強い男・弱みを見せない」の人格で生きてきた人ほど

シンジは見てて気持ち悪くて耐えられない。

シンジを見てられないと言った人の1人にウメハラ氏がいるけど、

ウメハラはガイル使いだったゲーセン時代ポーカーフェイスなあまり

ついたあだ名が「すまし顔ガイル」だった(最近は加齢と配信慣れでほぐれた)

 

シンジの臆病で気が弱いと見せかけて実は恨みとか

攻撃衝動とか殺意があるから噴出するけど

普段は表に出せない

みたいな陰湿さもリアルで。

主人公なのにここぞで絶望して無気力になるところも。

アニメだからこそここまで表現できたのかもしれない。

普段実写のドラマとかでよく見る演技とはまるで違う。

前に書いた『オーバー・フェンス』の

蒼井そらオダギリジョーと寝た後にパニックになるシーンは

本当にリアルで見てて内臓から全身が緊張する迫真さだったけど

シンジみたいな「屈折した弱々しさ」はちょっと他では見ない。

 

 

正直に言いたくない気持ち

自分がムッとしたり何かについて

赦せないと感じても

それを打ち明けようと思うと何か怖くて、

言ったら負けみたいな屈辱感もあったか、

ノドにつかえるような感じと腹にググッ...と抵抗感だった。

家族で出かける時、

父はコンビニとかに寄ると平気でコーヒー缶とかゴミを捨てていた。

それを見る度、

「あっこいつまたやりやがった!」

と内心呆れて怒っていた。

「家庭ゴミは持ち込まないで」って書いてあるのに。

 

それを抵抗感を感じながらある人に打ち明けると、

「何でダメなの?」

→自分:お店の人に迷惑がかかるから。

ゴミ出しの作業が増えて疲れるだろう。

仕事が増えるから。

→つまり、誰かを犠牲にできる、苦しみや犠牲者がリアルだって

信じているってことだね。

と言われて、ハァー...そうかとなった。

レッスン24の攻撃の想念。

 

何で、自分の動揺とか怒りとか恨みとか惨めさとか

「打ち明けたくない」と感じるんだろう?

と思った。

相手に厳しく言われて自分が痛い思いをするんじゃないかとか

何か自分の弱みというかダメなとこを晒す屈辱感(プライド?)

とかあるけど

正直に打ち明けたら、

心まで辿って自我的な信念を手放さざるを得なくなるから

それが何か嫌で屈辱的だった。

確かに負けるというか、、

「自分が間違っていた」ことを証明されて

わからされる、

その瞬間の屈辱感・敗北感はあった。

同時に、安心感というか救われた感じ、

あーよかった、ありがてぇ〜

もあった。

「打ち明けたくない」って、

手放したくない、

それが間違いというか妄想だったって

証明されたくない、

みたいな気持ちなのか。

まるでトイレを我慢するみたいに。

 

信仰と疑い

コースを始めた頃は一番しんどかった。

毎日が疑いと騙されているのじゃないか?

間違った道を進んでいるのでは 

みたいな腹の底の不安と恐怖だった。

疑念に苛まれる時は頭が痛くて地獄のようだった。

マザーテレサの本を読んだ時と、

便が漏れそうでトイレまで必死で我慢する時以外、

もともと信仰のかけらもないような性格だった。

信仰という言葉もなんか洗脳されるみたいで嫌いだった。

ノンデュアリティの界隈とか、

クリシュナムルティでさえ

信仰とかFaithは「時代遅れの迷信」みたいな感じだけど

生きるって信仰以外にもはやない。

みたいな感じで。

それ以外に生きる方法が単にない。

戦国時代とか昔の日本人のキリシタンたちも同じような

気持ちだったのか。

疑いはまだあるけど。