お金と犠牲の信念と勉強会、寄付にまつわるデイビッドの動画(URL貼れませんでした)
正直言うと、勉強会の申し込みをのりこさんにしたいけど、
お金の不安があり、できない。
お金がなくなったら、勉強会の申し込みができなくなる。
それは寂しいだろう。悲しいだろう。辛いだろう。
金の切れ目が縁の切れ目。みたいな、なんだろう、
わびしい悲しさ、惨めさを感じるくらいなら、
はじめからしないほうがいいじゃないか、深く関わらないほうが安全でいいじゃないか、と思える。
そりゃ、参加したいのはやまやまだけどさ、、
数ヶ月分の申し込みをしても、お金なくなるしな、働くしかないのか、
それは嫌だな、、という思考。
結局、幸せになるには、救済を受け取ったり与えたりするには、
苦しみを支払ったり、犠牲になるしかないのか、、ハァー、、という鬱、落胆。
のりこさんが先日のライブで言ってたように、
オレは子どもみたいに、「イヤイヤ」ってやってるのかな。
だとしたら、笑える。
自分の知覚と解釈が間違っていたら、幸せだよね。
ヘレンやビルは、無料で聖霊のレッスンが受けられたんだから、いいよなあ、ラッキーだよなあ、いいよな霊感が強い人は、、
という羨望思考。
子どもの頃、「お金」という言葉も、小銭は額が小さいから大丈夫だけど、一万円札とかが「嫌い・苦手」だった。
お金のために、社会の人々、両親は毎日苦しみ、辛い犠牲を払ってる。
小学生の頃、親友が、「世の中、結局金なんだよ。」と、
さも世界をわかったように、吐きすてるように言ったとき、
「たしかにみんなお金に支配されているように見えるけど、
お金じゃない、何か大切なものはあるだろう」
と、強い反感みたいな感覚があった。
しかし、拭えなかった、子どもの頃の、お金という概念への恐怖。
自分の家族だけじゃなく、みんな、自分が毎月何万円稼いでいるか、
秘密にして、こそこそしてる。
他人より稼いでいることに罪悪感があるのか、
稼ぎはその程度かと見下されたり、逆に嫉妬されるのが嫌なのか。
社会のほとんどの人々を「死ぬまで苦しみ続ける奴隷」にしているように思えて、お金というものが怖かった。
お年玉でお金をもらえば、罪悪感を感じる。
なぜならもちろん、「労働」という犠牲によって支払われた、
限りある貴重なリソースであるお金をもらうわけだから、
申し訳ない。
親しい親戚とはいえ、貴重なものを差し出してもらっている。
お年玉をもらって喜び、幸せになるどころか、
罪悪感という苦痛をプレゼントされているようなもので、
お年玉を使うこともできなかった。
笑ってしまう。
犠牲と苦しみの世界。
まさにテキスト17章の「二つの絵」だな。
外見は素敵な魅力的なプレゼントでも、中身は罪悪感と苦しみ。
デイビッドが、
「リビングミラクルズで暮らしているように見える自分たちは、
社会で労働してお金を稼いでいる人たちが寄付してくれるおかげで生きているように見えますよね?No!それは違います。聖霊からのガイダンスによって、わたしたちは生きているのです。
ジーザスがプロバイダーです。」と言っていた動画があって、
かなり探したけれど、何故か見つからない。なのでURLは貼れません。
フランセスが、コミュニティでお金を払うことに抵抗がある人を見た経験について話していたとき、
「与えることと受け取ることが分離していると信じている。
与えることが失うことだと信じている」
と言っていて、正直、
「そりゃ、金は働いて獲得する、犠牲を払って獲得する希少なリソース
なんだから、与えるのは損失であり、犠牲だから、支払うのを躊躇するわな」
と思った。
バイロン・ケイティやディランの、
「私にはもっとお金が必要だ、という考えは真実ではない。
お金が仮に十分たくさんあっても、依然として不足感を感じる」
というレッスンを教える動画を見て、
「自分が犠牲を払って、何とかお金稼がなきゃ。
オレの行為で獲得しなきゃ」という思考を信じるとき、
確かにストレス、プレッシャーがあり、心の平和とは真逆のゴールだ、
ということが感じられた。
「オレがなんとか状況を解決して、金を獲得して欠乏を満たして、自分や他人の幸せをゲットしなきゃ」というプレッシャー。
ゲット、ゲット。ゲッター ロボ。
自分が勉強会に参加するべきなのか、しないべきなのか、
それもわからない。
「勉強会に参加できなければ救いを受け取れず、孤独で不幸せだ」
というのも、欠乏の信念か。
わたしの思考と知覚が、間違えていることを望みます。