呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

平安のツールでも書いたけど、ある女性に、あなたとコミュニケーションしたい と、メールしてしまった。情けなく、恥ずかしい。人間関係に繋がりとか、満足?分かり合える一致感、幸せみたいなのを求めているだけでも恥ずかしいのに、男ならまだしも、よりによって文章からし若い女性。見た目とかは知らなかった。必死に繋がりを求めて、暑苦しいというか、明らかに自我の欠乏感から、人間関係追求して求めてる。気持ち悪い、拒絶したいと思われているだろうな。自分でも否認して、目を背けていたような悩みを、ブログで無防備で書いていて、感謝みたいな気持ちが溢れてしまい、繋がりたい、コミュニケーションをとりたいという気持ちが出てきて、どうにも我慢できなかった。祈ることもできなかった。神の愛なんて、まるで信じていないのか。あまりに辛く惨めで、自分を優しく見るしかないか、と思い、これは自分の愛を求めてる声かと思うと、泣けてきた。必死の渇望。

砂漠をさまよい、喉が渇いた人が、必死に水を求め、蜃気楼のオアシスに

しがみつくような気分。与えるより、獲得したいのか。自分の好みの人とだけ、繋がりたい。

あまりに惨め。大学のとき、女の子に初対面で話掛けて、仲良くなったけど、今思うと、醜い欲望だったか。自分の見た目なら、たぶん受け入れてもらえるだろう、みたいな計算が無意識にあったのかな。見た目がいいからじゃなくて、話しやすそうだったから、だけど、「女の子と仲良くなりたい」みたいな願望は、本当に罪悪感を感じる。全く無条件の愛じゃない。自分と分かり合ってくれる人が欲しい。見た目、、気にしてるか。同じ気持ちや悩みを、分かち合ってくれる人がいい。注文してる。

恥を晒しただけで、本当に愚かだった。超、やっちゃった感。やらかした。しかも、半自動的だった。まさに、エゴのロボットだった。レッスンのいい機会にはなったけど。

タイミングのいいことに、ディランが教えてくれた、トスカナの夜の、

主人公の女性が悲惨な離婚で痛い思いをしたにもかかわらず、またしてもナイスな男性を求めてしまい、またしても裏切られ、I’m stuuuuuuuupid!と言いながら、泣きながら絶叫して暴れていた。相手への怒りより、自分の情けなさ。まさに同じ気持ち。他人ごとじゃなかった。デイビッドの言う通り、自分で自分の思考や、体の動きは、まったく自分でコントロールできない。条件付け、エゴの操り人形だから。外側からの、助けがいるのか。あなたの追求、幸せ探しの方法は、間違えてますよ、と教えてくれるものが。 

自分で自分がおぞましい。間違った場所、方法で愛を求めている。

兄弟と自分が無罪なことを思い出して、平安に帰れますように。

Take me homeの、ジェフを思い出した。