呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

気づくと自己攻撃

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勉強会でシェアした後、

「また自分だけ早口になってた」

「また自分のことばかり話すイタい感じになってた」

「全然ちゃんとできてなかった」

「眠くなってたことや時間をとってしまったことに罪悪感を感じて

自動的に瞬間的に、エクスプレスするのではなく

のりこさんにすみませんと言ってしまった」

という感じで、ズキーンと痛々しさ、後悔、罪悪感みたいな痛みを感じていた。

聞いていた人もイラついたり「あーあ」と痛々しさを感じていたに違いない、

やってしまった、というジャッジされるだろうという信念と失敗感。

これ自体が赦しの機会なのかと思い出してBeeBotをまたやってみた。

https://www.facebook.com/ACIMbeebot/
罪悪感や後悔や恥を感じるのをやめて平安になるために

疑う信念Dは「自分が失敗した、I messed it up」だった。

BeeBotに「あなたはこの信念が100%真実だと思いますか?」

と言われて、これには別の見方があるし、

のりこさんたちも自分を「あーあダメだなぁ」とは見てなかったかもしれない、

自分は単に自分のベストを尽くしただけで、

自分を裁いて「もっとうまく話すべきだった」

という願望Eを持ち続けなくてもいいかも、と少し思えた。

ここまでやって、

のりこさんが5/15の勉強会のあすかさんのときに

「自分の解釈は0から100まで間違っている」というのを思い出した。

けんたさんもNoteで書いていたhttps://note.com/phonio/n/na0655fc95967

Note を見に行ったら、しょうこさんがももこさんと話した経験を書いていて、

「自分はももこさんほど深い話がしょうこさんとできてなかった。

時間を有効に使えてなかった。申し訳ない」という感じの罪悪感と劣等感を感じて、

どこまでも半自動的に比較したり裁いたりし続けているのに気づく。

レッスン26の、「この考えはわたしを攻撃している」を思い出した。

のりこさんが昨日

「1今日どのように過ごしたいか、

    2自分で判断しない

    3動揺したらわたしは間違っていることを望む」の決断のルールを言ってくれたけど、

Beebot のリマインド機能をやってみたら、

ちょうど同じことをそっくりそのままやってくれることがわかった。

 

 

 

 

 

相手を傷つける恐怖から曖昧にする 『まごころを君に』

自分はエヴァンゲリオンのTVとか劇場版が好きだったから、

コースとか真がなるハートの実践とピッタリ重なると感じた部分を書きたいとか

そういう気持ちがあったけど、

エヴァンゲリオンはオタクの代名詞みたいな作品。

恥ずかしい。カッコ悪い。

それに直面することなのか。

自分ははじめてエヴァを見た時、

「かわいい女の子がこんなエッチなピタピタのスーツきて、

露骨に人気狙ってるというか媚びてる。

いかにもオタクっぽいというか、、」と思った。

作品を差別するというか、蔑むように見るというか。

だから、エヴァの記事は一本公開したけど、

なんか書いても下書きのままだった。

勉強会でのりこさんが、

「自分が見たくない、

嫌なものに触れるから嫌だから曖昧にして何かを先延ばしにするのは

癒しや解放を遅延してるから、

先延ばしにしないでハッキリ直面した方がいい。

具体的に明らかにしてデッドラインを決めたら、

曖昧にして逃げられないから。」

と言ってたのを聞いて、

これ公開しようと思った。

「曖昧にし続けるのは傷つきたくないからの一時しのぎ」

というセリフがあった場所。

ネットフリックスでエヴァの旧劇場版「まごころを君に

が見れるのにこないだ気づいた。

めちゃくちゃグロいシーンもあって中学生の頃はYouTubeで細切れの動画を見るだけで

全身にバシバシショックを受けたけど、

今見るとグロいシーンはもう何度も見て慣れているから

キャラクターのセリフに注意がいった。

主人公のシンジ:嘘だ!

みんな笑って曖昧にしてごまかしてるだけだ!

レイ:本当のことはみんなを傷つけるから。

みんなを追い詰めるから。

それはとてもとても辛いから。

シンジ:曖昧なものは僕を追い詰めるだけなのに。

このままじゃ怖いんだ。

いつまた僕がいらなくなるかわからないんだ。

落ち着かない。ざわざわする。

声を聞かせてよ!僕にかまってよ!」

みたいなセリフを声優さんが迫真の演技で言っていて、

心の苦しみとか言い張りとか寂しさとか痛々しさを

切実に生々しく描いていた。

シンジの「曖昧さはぼくを追い詰める」というセリフ。

のりこさんの撮影の許可を求める連絡を曖昧にして後回しにしていたら

後で恐怖や罪悪感がだんだん大きくなった、

という話を聞いた時思い出した。

 

 

『Identity』/アイデンティティー とCOVID

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https://mwge.org/
MWGEで、今日の映画がランダムでガイドされる

くじみたいなオラクルを引くと、「Identity」というサイコスリラーが出た。

なんかサスペンスっぽかったけど、

MWGEの解説を読むとメタフィジカルっぽくて

「個人と個人が人間関係を持つことは実際には起こってない。

私たちは心の中の思考を外側の人間として投影して、思考と関わっているだけ。」

というのが映画「The Nine」みたいで

現実や知覚の概念がガラッとひっくり返るような解説に引かれて、

見たくなった。

内容はそのままネタバレになるから具体的には書かないけど、

他人だと思っている人たち、

自分と性別や仕事や性格や経歴がまるで違う人が

実は自分の一部だった、

元々はひとつの心なのがバラバラになった赤の他人みたいに

擬装されてそう思い込んでいるけど

本当はそうじゃなく、心の一部の反映だった、

というのがまざまざと見えた感じで、

現実の人間関係の見え方がガラッと変わるような感じが怖かった。

https://youtu.be/BT_IFLCxYWI 病気に気づくシーンのクリップ(英語)。
自分はないものが見えていて、自分が誰かもわからなくなっていて、

他人が何なのかもわからなくなっている精神病なのが

露見した、

普通で正常、これが常識と思い込んで疑わなかった

知覚とか世界観がまるきり病気というか妄想だった、

みたいな全身がゾワッとくる不気味さ。

https://youtu.be/C_gh6TgdWVs

この動画のニュースのパロディみたいなパートで、

COVIDを"Concept of Vast Individual Delusion"

("個人という巨大な妄想的概念"みたいな訳になるか?ズレてるかも)

ともじっていた。

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ピーター: COVID、個人という巨大な妄想的概念こそが

はるかに大きなスケールで何十億年も続いている本当のパンデミックです。

誰もこれに気づかない理由は、

私たちの(肉体ではなく)心が冒されているからです。

その結果、わたしたちは歪曲された状態でしか、

ものごとを知覚したり思い出したりできなくなっています。

わたしたちは皆、このCOVIDがなければ現実はどういう感じなのか、

すっかり忘れてしまっています。

そして、ぜんぜん何も真実なものやリアルなものは

知覚したり思い出したりしていません。

リンダ:ほとんどの人は、

「わたしはもちろん、歪曲したヴィジョンや記憶なんか持ってないよ。」

と言って、このCOVIDの説を否定します。

私たちは全員、例外なくこのCOVIDに感染してきたのかどうかについて

世界中でリサーチが実施されました。

歪曲を突き抜けた真にリアルな記憶やヴィジョンを垣間見た人々から、

その証拠が明らかにされました。

===========

続きはコミュニティの人たちの神秘体験やヴィジョン体験のインタビュー。

映画はシリアスなサイコスリラーで不気味だったけど、

COVIDの動画はリビングミラクルズの本気のユーモアという感じで面白くて、

明るい気分になった。

5/17の勉強会で45分30秒あたりでのりこさんが、

「罪を犯したと信じていることについて、

聖霊はさあ現場検証してみましょう、

なぜならあなたは罪がないから。

本当はやっちゃってないから。」

と言うけど、

自我は「邪悪さや罪だと思うものを見たらヤバいよ。

ヤバいことになるよ。

なぜなら本当に罪をやっちゃったわけだから。」

と言う、と言っていて、

少しネタバレになるけど、

この映画では元警官の主人公が殺人の被害者や現場の証拠写真を撮るシーンがあって、

まさにそれは罪の実在を検証して証明するためだった。

映画の後半で死体が忽然と全て消えるという展開があり、

せっかく証拠写真を撮ったのに罪の証拠が一瞬ですっかり消えてしまうのが

まさに聖霊の現場検証だと思った。

のりこさんがその後、

「なんだドッキリかよ、あると思ってたけど本当はなかったのかよ」

というのも、

この映画の内容にも従姉妹との経験にもぴったりだった。

 

募金の罪悪感

カースティンさんがFacebookでFoundation for Awakening への募金を募っていた。

自分はPaypal のアカウントやカードが作れないのもあり、

募金できない。

それで罪悪感の痛みを感じた。

平安のツール

https://levelsofmind.jp/wp-content/uploads/2019/03/instrument-for-peace_jp.pdf

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A募金できないことに、B強い罪悪感、

カースティンさんを裏切っているような感覚。

頭では、カースティンさんが自分を責めてはいないはずとは分かっているけど、

募金の額や人数が少ないからこれじゃカースティンさんは落胆するだろう、

献身が報いられなかったと感じるだろうみたいな思考。

C自分含めて募金してない人、が責められるべきで、

未来または過去に

カースティンさんが欠如や怒りや軽蔑や咎めを感じているだろうという思考、

D自分が裁きに値する有罪だという信念。

E願望は、自分や他人が募金できればいいと感じている。

わたしはD募金が足らないという欠如を信じているので、

E募金をできれば、平安で幸せになれると信じています。

投影で見るものは、非常にリアルに見えます。

なぜなら、内側にある信念や決断を直視しないための企てだからです。

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自分や他人が有罪で裁かれるべきだという信念を証明して

怒りや罪悪感の感情や思考を温存して正当化するために、

知覚や出来事を利用しているのか。

エスを決して裏切らないと言ったペテロたちが

処刑されるリスクへの恐怖からローマ兵の前で

エスを知らない振りしたような罪悪感。

カースティンさんに恩を感じているくせに裏切るのか、

わずかな寄付もできないの?という目で、

カースティンさんに見られているような痛々しさを感じる。

 

 

 

 

『ジョーカー』

先日テレビで

池袋でかなり前にあった連続殺人事件の犯人のドキュメンタリー的なことをやっていた。

23歳の青年。

どこまで番組の内容が真実かもわからないけど

正直あまりに痛々しくて、最後まで見られなかった。

最初から見てないから彼に家族がいたのかもわからないけど、

生活費を稼ぐために道路工事の仕事をしているうちに

犠牲者感覚や社会への怒りが溜まっていって、

街で笑いながら遊び歩いてる人を見るうちにその

「軽薄さ、誠実さのなさ」に強烈な憎悪と殺意を感じて犯行に及ぶ決意が固まった、

という感じの流れだった。

ここまでの流れが映画『ジョーカー』とかなり似ているように感じた。

細かい点は違うけど、本質が同じというか。

自分だけ恵まれてなくて孤独で希望もなくて、

惨めな自分を嘲笑うかのように遊んで笑っている人たちに憎悪や殺意を

募らせるというのが、

まさにジョーカーという感じだったけど、

自分を見ているようでもあり痛々しかった。

今思い出したけど

学習者のマイティさんという方がブログで、

「自分を不幸にしておきながら、

メシウマという感じで自分を嘲笑うかのように自分だけ幸せになっている人

が赦せない気持ち」について書いていたのを思い出した。

まさにそういう感じだった。

 

都会で人はたくさんいるのに、孤独というか、

暖かいつながりみたいなのがない。

キリスト教会の関係者に援助してもらっていたという感じの描写はあったけど。

実際に人を攻撃したから特別に悪い犯罪者であるように感じられるけど、

誰でもこうなるというか、

彼は少し運が悪かったからこうなったけど、

誰でも程度が違っても同じような精神状態にはなるじゃないか、

と思った。

父はこの番組を見ながら、

「信じられない。ありえない。なんでこんな残虐なことができるんや。

ありえん。なんやこいつは。」

という感じで、

必死に「俺はこいつとは違う。こいつは理解不能なモンスターだ」

というふうに、

まさに投影の力動の

「自分の中の不快なものを外側に押し出してなすりつけて他人事にして、

自分の罪悪感を忘れる」

というのをあからさまにやっていた。

父自身があの青年のように、

周りの人間を凶暴に攻撃してきたことをすっかり忘れて無かったことにして、

「俺はまともな社会人、有能な小学校教師だから、アイツは理解できない」

という態度だった。

なんとしても、罪深いアイツを自分の内側、自分と同類には含めたくはない、

という必死に除外する感じというか。

まさにテキスト31章の『無垢な仮面』だった。

父を眺めると、父の性格が極端でわかりやすいタイプなのもあってよく見えるけど、

自分も同じことを無意識にやってるのかと書いていて思った。

 

 

散歩とガイダンス

しばらく前、16時くらいに目が覚めて、

かなり悪い気分だった。

また昼夜逆転してしまったという嫌な感じ。

でも、手近にあったワプニック博士の『赦すけど忘れない』

を読んだらひょっとして何か気分が変わるかもと思い、

藁にもすがる気持ちで

本に手を伸ばし、

しばらく読んでいると、

いつの間にか気分がましになり、

本を置くと、窓の外は美しい夕方のオレンジ色だった。

それを見ながら立つと、

夕陽の美しさも手伝ってか何かいい気分になり、

何か散歩に行きたい気持ちを感じた。

夕方の散歩では犬の散歩をしている人もちらほらいて、

かわいい犬たちとすれ違いながら歩くことができる。

それで家を出て少し歩くと、

デイビッドたちのことを思い出して、

散歩のコースをガイダンスで決めようと思った。

それでどう感じるかを見ると、

まず線路の方に歩いて、

それから川沿いを歩いて田んぼの中を帰ってくるコースが良さそうに感じた。

それで夕方の涼しい時間を歩いて

コースの後半の田んぼの中の道が交差する地点

に近づいてくる20メートルほど左方向に、

2人の小学生くらいの女の子のたぶん姉妹が2匹の小型犬の散歩をしていた。

自分の歩いている道とその女の子たちのいる道とが

ちょうど交差するポイントに差し掛かる数秒前に、

突然犬のうちの一匹が脱走してこちらに向かって走り出してきて、

女の子はそれに気づいて追いかけはじめた。

自分がちょうど交差点に着くと、ちょうど犬が目の前に走ってきて、

自分は犬の前を塞ぐように両手を広げて犬を止めようとした。

その時、「もし犬が自分のそばを通り抜けたらヤバい。

失敗する。カッコ悪いし申し訳ない。」という焦りを感じたけど、

幸い茶色のプードル犬は止まって、自分に吠え出した。

女の子は「すみません。」と頭を下げて犬を抱き抱えた。

その時、何か恥ずかしさを感じていたけど、

役に立てた嬉しさを感じて、

「これは行為者の手柄感なのかな」と思った。

犬を止められないかもしれない恐怖・行為者として失敗する恐怖もあったけど、

ちょうど犬が脱走した瞬間に居合わせたこと、

犬も歩けば棒に当たるじゃないけど、

散歩するだけで役に立てたかもしれないなら、

自分みたいな人間でも何か聖霊に使い途があるかもしれないと思った。

『ショーシャンクの空に』/Shawshank Redemption

ネタバレになる部分はなるべく書きません。
叔母がトゥルーマンショーともうひとつ強く勧めてくれた映画が
ショーシャンクの空に」だったけど、
刑務所モノは暗いというか辛いイメージなのもあって
見たくなかった。
重い雰囲気だしこれがガイダンスとは思えず
なんか見たくない嫌な感じで
他の映画を見たほうがいいかと思ったけど、
最後には見れて良かったと強く感じた。
最初はこれでもかと残酷で暗い絶望的な状況が描かれていて
暴力描写もあり辛くてもう見たくないという感じになったけど、
中盤あたりから希望が少しずつ見え始めた。
この前デイビッドの映画リトリートで
マリリン・モンローの映画を見たので、
主人公のアンディが独房にマリリン・モンローのポスターを
貼った時にハッとした。

youtu.beこの映画を見はじめる前にSpiriアプリのデイビッドの↑の動画を見ていたのだけど、
その内容がまさにちょうど奇跡的に映画の内容にピッタリだった。
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1:16 デイビッド:あなたが心底幸せや喜びを感じていないときは、

あなたの中で妥協が起こっています。
妥協においていちばんやっかいなのは、
妥協していることが自分でわからないことです。
あなたは、自分は妥協していないとあなた自身に思い込ませました。
「自分はすでに十分良い人生を手に入れている。
地球のほとんどの人よりもマシな人生を手に入れているのだから」
という感じです。
3:49 わたしたちは妥協を明るみにさらけ出して、

それを終わらせるためにここいるのです。
4:50 なぜならもし私たちが何が起こっているか知ってさえいないのなら、

そこでは何か怪しいことが起こっていて、
あなたが100%幸せで喜びに満ちていないけれど、
それが何なのかわからないでいるというとき、
まさにそれが
”たぶん私は地球の上で見つけられる偽りの幸せがあると考えている
妥協をしているかもしれない”というふうに見るための
絶好のチャンスなのです。
==============
映画の中で、主人公のアンディは自分の無実が証明されて終身刑から
自由になることを本気で望んだり
刑務所から解放された後の希望を話すけど、
モーガンフリーマンが演じるレッドは、
「希望を持つのは危険だ。
希望をはやく諦めて、現実を受け入れろ。
俺は何十年もここで暮らして慣れきっているから、
シャバではもう生きて行けない。
終身刑の俺たちが希望を持っても辛いだけだ。
俺は塀の中ではみんなから頼りにされて安全に感じているけど、
外では何の価値も無い老人だ。もう生きられない。
最初は塀を憎むけど、時間が経つにつれて塀に依存してしまった」
という感じだった。
アンディやレッドたちは
看守や囚人たちから慕われたり頼りにされる特別な立場を築いてた。
肉体労働をする他の囚人と違って、
銀行家だったアンディは財テクとかマネジメントの仕事を任されて、
看守からも保護されてそこそこの自由を許されるいい立場になってた。
レッドは看守とコネを作って、
ここですでにある程度の自由もあってまあまあ幸せだから、
この安全な場所にいれば満足という感じだったけど、
アンディは「人生は結局、生きることに忙しくするか、
死ぬことに忙しくするかだ」と言って妥協しなかった。
塀の中でまあまあ特別ないい立場を築いて満足するレッドが、
デイビッドが言う世界の中で妥協する心のシンボルに見えた。
真っ暗な懲罰房から出てくるときにアンディの
目が光に耐えられないところも、
テキストの文章を思い出した。
アンディが規則を破って音楽を刑務所中に流した後、
「音楽は心の奥にある何か大切なものに触れるから
みんなの胸がきゅーっとなるんだ。
心は目に見えないけど、心の中にある希望は決して誰にも奪えない。

そう感じたことあるだろ?」
と言ったとき、
レッドはその言葉を理解できないという感じだった。
レッドは色んなモノをこっそり調達する立場で
モノのことばかり考えて、
モノを手に入れる世界では達人だけど、
希望とか心のことはすっかり忘れ去っているように見えた。
アンディが自由になれたらメキシコに行くとレッドに言っていて
太平洋に面した温かい場所であるメキシコのジワタネホ
が天国というか希望と自由の象徴みたいになっていたけど、
デイビッドたちがいるメキシコのチャパラに
自分も憧れというか希望があったから
アンディと自分が重なって見えた。
メキシコのシーンでは、
地名の看板にカースティンさんの苗字の”Buxton”があってハッとした。
「希望は捨てろ」と言ったレッドにアンディが
「希望はいいものだ。多分最もすばらしいものだ。
良いものは決して滅びない」と手紙で伝えるシーンでは
「そうだ。希望こそリアルなんだ!」みたいな強い感動を感じた。
そういえば、デイビッドの苗字の"Hoffmeister"は、
ドイツ語で”希望の主”という意味だったということに
デイビッドが40歳になってはじめて知ったと話していたのを今思い出した。
自分が4ヶ月風呂に入れなかった時は、
千と千尋のオクサレ様になった気分だったけど、
まさにアンディが2ヶ月懲罰房に入れられた時みたいな感じだった。
本当に希望も無く、幽閉されたような感じで絶望してた。
レッドは「俺たちの人生は最高でもこんなもの。
まあまあ幸せじゃないか。
これ以上の、本当の心からの喜びや希望なんてありえないし、
俺たちには決して手が届かない。
俺たちが本当に解放されて幸せになることは
どうせ絶対にないんだ。」
という感じで結論付けて諦めて、
デイビッドがよく言うようにすっかり
「静かな絶望の人生」モードだった。
その心は一見、成熟して悟って達観したかのように見えるけど、
それは妥協なのかと感じた。
母はよく、「普通に生きられることはありがたいこと。
普通に生きられない人もいる。
体が健康で家族が健康で、ちゃんと働けるだけで感謝しなくちゃ」
と昔言っていたけど、
今思えばそれはデイビッドが動画で言っていた、
「地球の中では、
自分たちは恵まれない人より比較的恵まれててマシだから
これで満足しよう」という感じだった。
自分もそう思ってたけど、
母はあまり幸せそうには見えなかった。
尋ねると言葉では「幸せだよ。」と言ったけど。

汚い下水管の中を糞尿まみれで這いずるアンディを見て、
どんなに汚くてみじめで絶望的な状況でも
どんなに絶望に沈みたくなる状況でも、
あえて、あえて
何か一縷のわずかな望みを信じる意欲を差し出す
とか、
罪悪感や恐怖や無価値感や自己嫌悪の中を通り抜けて
向こう側にある自由にたどり着く
みたいなものを感じた。
デイビッドが、「わたしたちはほふく前進で少しずつ進む
亀のようです」と言ってたのを思い出した。
自分にとっては、それは4ヶ月ぶりに風呂に入って
JACIMに参加したり長いヒゲを剃ってのりこさんに
初めてメールしたりすることだった。