呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

都合が悪い

自分ひとりで行き詰まっても他の人には言い出せなかったところ、

直子さんに声をかけてもらえて話してもらえて本当によかった。

案ずるより産むが易しと言うけど1人で悩んでも本当に

所詮は井戸の中で何も見えてなかったんだなと思った。

オンライン合宿も休んでしばらくのりこさんたちの活動からは

少し距離を置いて離れていたから、

メールをもらった時はドキッとした。

行き詰まってるのがバレてたのかな?とか

ある意味サボっていた後ろめたさみたいなのもあった。

相手が誰でも、なんか厳しく裁かれるんじゃないかとか

見捨てられる恐怖みたいなのは罪悪感があるから自動的にくる。

まだ誰かに助けを求めるのは抵抗ある。

誰かと話したり繋がって経験や気持ちを分かち合ったりするのは

楽しいし心がつながるというかホッとしたりいい感じがするんだけど、

デイビッドたちやのりこさんたちみたいに

「なるべく隠さない、オープンに打ち明ける」

っていうのは、ほんとに自我というか自分にとっては

都合が悪い、胸が苦しくなったり嫌われる恐怖だったり不快感だったり

痛々しさだったり恥だったり出てくるけど

本当に都合が悪いんだなと感じた。

テキストのどこかの『自我は秘密と共に生きている』だったり

T-13.Ⅱの自我の秘密は2重とか多重構造になっていて

本当に暴かれたくない秘密を何重ものニセの秘密で覆って隠してる

みたいな説明があるけど、

これは本当にキツいし胸が苦しくなるしで、

自分が勉強会とかも続けられる自信はない。

本当のコミュニケーションって嬉しいこともすごくあるけど

すごく怖い。

アジャシャンティが何かの本で

道端を何人かで一緒に歩いて会話している高校生くらいの学生たちを見て、

「この子たちは皮層的なことばかり話して本当にはわかり合えてない、

本当に心を開いて打ち明けるようなコミュニケーションは

全然できてない、

この子たちは本当には全くコミュニケーションできてないんだ」

と思ったというのを書いていた。

自分もそうだったけどそりゃ孤独だよなと思った。

怖いし相手を信頼できないから仕方ないんだけど。

あと別の箇所でアジャシャンティが

「個人的な人間関係は実は存在していません。

分離はないから」と書いていてエッ?と

足場を引き抜かれたような感じになった。

のりこさんも言っていたけど人間関係を理想的にして

そこで幸せになるのはあくまで通過点でたぶんゴールじゃないんだな。

直子さんが何度も言っていたけど

「これをハッキリと伝えたら相手は不快になったり怒るから人間関係が終わる、

捨てられるというか一巻の終わりだ」

みたいな恐怖がくるけど、

それもある意味その通りというか

「肉体レベルの人間関係をいい感じに保ったり形を維持して

そこで孤独や恐怖を紛らわし続けるのが最善の利益というか必要なんだ」

っていうものスゴイ強い信念を

浮き彫りにして取り消すのが目的なのなんだろうと思った。