呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

小さなシンクロ

XMENのことを例えでおとといくらいにブログで書いたら、

なんか、LivingMiraclesのNikitaさんの動画が見たくなり、

Nikitaさんがギャザリングとかで話す動画をいくつか見ていたら、

その横でデイビッドがXMENのことを何回か話した。

狙ってやったわけじゃないけど、不思議と起こるシンクロ。

 

アナ雪2

https://youtu.be/kt19xjwUR2Q

アナ雪は子ども向け、女の子向けっぽく見える作品なのもあり、

「正直あんまり見たくない。退屈そうだし、ミュージカルとか微妙だし」

と思った。マトリックスみたいな作品なら喜んで見るけど。

でも、他でもないデイビッドが評価してるわけだから、

自分の思いこみをあえて疑うのもひょっとして悪くないかもしれない、

と思った。

見てみたら、意外にもたしかにいいシーンがいくつもあった。

一番記憶に残ったのは、アナやオラフを危険から守るために、

エルサがアナをあえて突き放して、

魔法で強制的に危険な旅からリタイアさせたとき、

アナが、「エルサは決して離れないのを約束したのに、

わたしたちを追い払った。だから、わたしたちには、怒る権利がある!」

と、エルサが約束を破って自分を追い払ったことについて、

文字通り、アナが自分の怒りを正当化したシーン。

「自分の怒りを正当化したい気持ち」を真っ向からはっきり描いたシーンだった。

相手を加害者、自分を被害者だと思いたい気持ち。

被害者といえば、実はエルサのおじいさんが山の部族を裏切って攻撃した

加害者だったり、エルサの強力な魔法の秘密を探るために両親が旅に出て、遭難して死んでいたのを知ってエルサが強烈な罪悪感に直面したり、

前作も、エルサが魔法で加害者になるのを恐れていたけど、

「加害者としての罪悪感」に直面するシーンがいくつもあった。

おじいさんが部族の族長に剣を振り下ろした過去の記憶を見た瞬間、

エルサは恐怖と罪悪感で全身が凍りついてしまう。

前作で、悪役がエルサに剣を振り下ろした瞬間、

アナが恐怖で全身が凍りついたのを再現するようなシーンだった。

おじいさんが築いたダムをアナが破壊すると、

川の流れが洪水のようになり、それで水のスピリットか何かが解放されて、エルサがそのスピリットの力で解凍されるという感じだった。

ダムが破壊されるのは、何か抑圧とか制限とか、障壁を取り除くという

意味なのか。

あとおじいさんが部族がいずれ自分たちを裏切るかもしれないと恐れて、

部族への攻撃を決断した記憶をエルサが見たとき、

エルサが「それは恐怖よ。恐怖を信じないで。」と言った。

 

 

 

 

 

 

 

物足りない

デイビッドのアイルランドのギャザリング動画で、

デイビッドが、「あるコース学習者の女性が、

エックハルトトールの教えではもう満足できなくなったと言ってた」

という話をしてた。

エックハルトは、コースの教えを紹介したりしてるけど、

コースの中でも、

一般的には受け入れられないような教えはあまり公衆に話さない。

自分も、エックハルトの話ではもう満足できなくなった、

という感覚が前からあったから、

「自分だけじゃないのか、やっぱりそうなるのか」と安心した。

コースはじめる前は、毎日エックハルトの教えに頼り切るほどだった。

最初は、エックハルトの話が衝撃的で、こんな人いるのかよ、

と驚きだったけど、エックハルトは初心者向けに話す役割なのか。

 

 

無価値感のトリガー

https://youtu.be/bt16CwIMpHE

この動画の23:14秒で、アール氏が、ゲーム配信をしながら、

「すごいよなぁ、こんな中でも、外で働いてる人がいるんだよなぁ」

と言った瞬間、心に強い痛みを感じて、恥、痛々しさ、

目を逸らしたくなる感じ、逃げたくなる感じ、を感じた。

でも逆に、よく感覚を見つめると、

「今も寒い中、外で働いてる、たぶん交通整理とかの、

『偉くて素晴らしい、賞賛に値する人たち』がいて、

彼らは過酷な環境で自分を犠牲にして、キツくても、

滅私奉公で働いてるのに、苦労してるのに、

自分は、毎日家という比較的安全圏、

カンフォートゾーンど真ん中にいて、

幸せを享受してるから、自分は情け無い、働いた経験もない、

認めてもらえない、あまり賞賛や承認に値しない」という、

強烈な罪悪感まではいかずとも、

ステータスによる、比較思考と劣等感、無価値感だった。

Youtubeの勉強会動画以外では、

のりこさんたちの勉強会を一か月分しか見れてないにもかかわらず、

ブログの記事だけ、200を超えてしまった自分。

「勉強会を見れてない自分は、見れてる人に比べて、

進歩してないからダメ」という比較。

昨日、ももこさんに、働いて金を稼いだことがない自分に、

引け目を感じていました、と打ち明けると、

働いて金を稼いだら稼いだで、それをプライドに使うこともあり得る、

と言ってもらえた。

たしかに、働いたら働いたで、

「苦労して、自分を犠牲にして、社会や他人に貢献している、

自分で金を稼いでる俺は、働いて貢献もしてない連中より、

偉いんだよ」というプライドを得て、自分の存在価値、

「俺は世間に胸を張れる感」を得る自分は、容易に想像がつく。

つまり、仕事やファンクションを、存在価値を稼いで、

劣等感から自分を救う手段にする自分が。

逆に、働いてない自分のほうが上、みたいなプライドもあった。

のりこさんたちの撮影合宿も、

「合宿に参加できた人はより進歩してて、献身もできるから

呼ばれた、比較的、エリートみたいな、選ばれた人たち」

みたいな感覚を感じていた。

またも比較。

アール氏の発言がきっかけで、自分の中の、

「ファンクションとかで働く人は偉くて、働けない自分は、ダメ」

という、

比較思考をトリガーしてもらえた形か。

ジェニーさんが、デイビッドのコミュニティに住んで、

平日にみんなでのんびり映画を見て、自分の信念に触れる、

というリトリートをやっていたとき、

「平日の今頃、自分だけのんびり、ずっと映画見てていいのか?」

という居心地の悪さ、

Constructive(建設的)じゃない、ただ幸せを享受してるような自分に、

罪悪感を感じた、と言ってた。

まさに同じだ。

他人の仕事だけど、ゲーム配信はほかの仕事に比べて、価値が低い、

序列が低い、という比較思考もあったかもしれない。

マトリックスみたいな仮想の世界に過ぎないとしたら、

そういう序列はないことになる。

 

 

 

切なく、悲しい夢 火垂るの墓

とても可愛いらしい、

幼い女の子が何かで死んでしまい、その女の子が生前、元気で、

笑顔で幸せそうにしていた姿を回想するように、その女の子の家族か、

父親か何かの目線で見るという、

ものすごく切なく悲しい夢を見た。

女の子が生きていたときの幸せそう感、明るくて元気な感じからの、

その女の子が死んでしまった、という悲しい運命へのあまりの落差から、

切なさ、悲しさで胸がいっぱいになる、という感じだった。

一瞬だったけど、それがそういう状況だ、というふうに見て、

無意識に感情移入していた。火垂るの墓を見たときみたいな。

「愛する者を失うことが可能だという信念は、

おそらく最も狂った信念である」という、テキストの文を思い出した。

デイビッドのマップの因果関係を当てはめると、

「愛する者を失うことが実際に可能だ」

「死や別離がリアルだ」

という信念を、夢の中のスクリーン、

精巧なイメージの連続アニメーションで、再現して、

その喪失や分離や死がリアルだ、という信念に基づく世界観、

知覚をリアルに解釈して、その世界観を信じて、

“自分の心が力を与えて”、ストーリーに感情移入して、

結果的に、悲しさや切なさを感じていた、ことになる。

あと、目が覚めた瞬間、夢の中で経験した感情を全部一緒にしたような、

異様な感情と全身が緊張したような感じがあった。

マトリックスみたいに、

夢の中の主人公や、状況をリアルに受けとめていたからか。

前のように、明晰夢は見れなかった。

夢から覚めた瞬間にも、夢の中の緊張感や感情が何か残っていた、

というのを経験した瞬間、確かテキスト27章くらいの、

「夢の中で経験する感情は、夢そのものではなく、

夢を見ているあなた自身から生じている。」という趣旨の文の、

意味が確かにわかった気がした。

夢の状況自体は、たしかにめちゃくちゃリアルで精巧だけれども、

その状況、世界観をリアルに解釈して、感情移入して、

あらゆる感情を味わっているのは、他でもない自分の心でしかなかった。

あきなさんの記事を思い出した。

https://ameblo.jp/up4528/entry-12714785529.html

あきなさんは、いろいろなすごい経験をされていて、

それをシェアしていただけるのは、ありがたい。

レッスン5の、

『私は自分が思っている理由によって動揺しているわけではない』という言葉も、しっくり理解できた気がした。

夢の中の状況自体が原因で、自分は夢の状況に翻弄される側、

無力な被害者、ってすっかり信じているけど、本当は、

「その状況をリアルに受けとめている、

自分がリアルにイメージやストーリーを解釈している」

というのが実際の理由だ、と実感できた。

のりこさんとビデオ通話してから、しばらくして、

明晰夢を見るようになって、

途中までは、夢の状況に翻弄されて、自分が不当に扱われたり、

逆に加害者になったりするというストーリーの感情をリアルに経験していたけど、そのときは途中で、レッスンを思い出し、

「あっ、これ夢?」と気づけた。

最初はコースがウソかもしれない、と心底ビビりながらも、

コースはじめて6年、やっと、夢から醒めるっていうコースの内容は

嘘じゃない、マインドトレーニングは無駄じゃなかった、と実感できて、

心の力を取り戻したかのような、

マトリックスのネオが復活したときみたいな、嬉しさと解放感を感じた。

でも、今日みたいな夢を見るとき、つい夢に感情移入してしまう。

あと、自分は実際は夢の中にいたわけじゃないから、

夢を見ている原因は、夢の内側ではなく、夢の外側だ、と実感した。

https://ameblo.jp/up4528/entry-12714341255.html

のりこさんの、「全てはここで起きてるわけじゃなかった」

というのも、そうか。 

 

 

 

 

「皿洗いは犠牲」

父は皿洗いを決してやらない。

仕事で疲れているのか、何なのかわからないけど、休日でも、

とにかく皿洗いは決してやらず、皿にティッシュやらゴミを残したままにして、「こういう仕事は、オレはやらないから。」という感じ。

それが、赦せない。 

ゴミくらい、自分でゴミ袋に入れるべきだ、態度が傲慢だ、と感じる。

不満。

そして自分が皿洗いをしようとすると、

「自分だけ犠牲を払う感」を感じる。

「父だけ、皿洗いをしないのはズルい」という感じが無意識に出てくる。父は父で、「息子だけ働いて金を稼いでないのはズルい、

俺はあれもこれもやってる、俺だけ犠牲を払ってる」と思ってる。

つまり、お互いに、全く同じように、

赦せない思いや不満を向け合っているわけで。

「オレのおかげなんだからな」感を。

心のレベルでは、全く同じことやりあってるだけか。

「争いは同レベルでしか起きない」のね。

ただ、全部幻想だから、赦せる、とはなれない。

肉体の疲労や苦痛をリアルだと感じてるから。

そうすると、「自分だけ犠牲払って、苦しむのは不当だ、

おまえも、俺と同じ苦しみを味わえよ」という感じになる。

テキストのどこかに、「救済とは、誰かが利益を得るのに、

他の人が犠牲を払う必要がある、という考えが訂正されることである」

とあった。

他の誰かが犠牲になるという知覚。

母が皿洗いをやるとき、申し訳ない、と感じる。罪悪感。

自分が働いても、他人が働いても、結局、「誰かが犠牲になる」

という世界観から、脱出できない。

犠牲の配分が変わるだけ。

皿洗いに限った話じゃないけれど。

テキスト8章に、「肉体と同一化するなら、あなたは重苦しさを感じる」

とある。

何か行為する以前に、そもそも肉体化してる時点で、既に重苦しいのか。

デイビッドは、「自分が実在する肉体を持ってると考えるなら、

それ自体が既に傲慢です」と言ってた。

デイビッドの、

「皿洗いを行為者としてやるなら、それはプライドです」という言葉。

「仕方ないから、肉体の自分が、犠牲や苦労を払って、貢献してやる。」

という、

「オレのおかげ感、オレが犠牲を払ってやってあげてんだから、

感謝しろよな感」なのか。

「仕方ないから、自分が苦労を買って出るか」みたいな、

犠牲感、苦労感あるんだけど、オレがやらなきゃだから、

善行をやってやるか、みたいな気持ちのときは、たしかに、

心が重い。義務感。強制感。妥協感。代わりに報酬が欲しくなる感。

ファンクションそれ自体が目的じゃなくて、罪悪感から解放されたり、

自分の価値や貢献を証明したりするための、手段になってる。

デイビッドやフランセスは、

「正しい心からは、手段と目的は一致している。」と言ってた。

ファンクションという犠牲、苦労の先に、「未来の救済」がある、

だから、苦しい今を耐え忍んで、未来の救済を待つ、のは違うはず。

皿洗いが、何かを稼ぐ手段になるのは違う。

もっといい道があるはずだ。

その道を、教えてほしい。

L1この場所に見えているものには、何の意味もない。
L2この場所に見えているあらゆるものに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である。

L3この場所に見えているどんなものも、私は理解していない。

L4これらの考えには何の意味もない。それらは、この場所に見えているものと同様である。

L5私は自分が考えているような理由で、動揺しているわけではない。

L6私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

L7私は過去だけを見ている。

L8私の心は過去の考えにとらわれている。

L14 神は意味の無い世界を創造しなかった。

L26 私の攻撃的な考えが、

決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。

中央アート出版『奇跡講座ワークブック編』より引用

 

 

Mooji 「これらは、あなたではありません」

https://youtu.be/5iIHYeGUa1w

デイビッドの動画を聴きながら寝て、

起きたらムージの声がイヤフォンから聴こえてきた。

「あなたが私のものだと思っているものは、あなたではありません。

私のもの、私の車、私の肉体、私の顔。あなたは、あなたの顔が好きですか?」

と聞いて、思い出した。

何年もずっと引きこもっていると、自分の顔を見ることがない。

自分は何ヶ月も風呂に入らないのも普通だったから、

なおさら自分の顔を全然、鏡で見ない。

すると今年のはじめ、のりこさんとビデオ通話する直前なんかは、

自分の顔がどんな風に見える顔だったか、本当に忘れていた。

正直、1年に数回しか風呂に入らず、

自分の顔すら忘れた状態でコースを学ぶ学習者が自分以外で日本にいたか?という感じだけど、

本当に自分の顔を忘れてた。

ムージみたいに、ヒゲも伸びまくっていた。

で、のりこさんとビデオ通話したり、

Zoomのミーティングに参加すると当然自分の顔が画面に映る。

Zoomのミーティングでは、自分の顔はビデオでは写さず、

フェイスブックの顔写真が映る。

その写真を見ていると、

去年まで自分の顔を何年も忘れた状態で生きてたから、

まるで他人の顔だと感じた。

他の学習者の方の顔と同じように、別の誰かの顔があって、

これは「自分の顔」のはずだけど、他人の顔という感じがする、

不思議な感じだった。

ムージは、「自分の顔が好きですか?」と言ってたけど、

自分の顔写真を見ながら、

「まぁまぁマシな方の顔かな?」みたいに思っていた。他人みたいに。

髪型を変えたり、ヒゲを剃ったりして、

自分の顔のイメージは変わるけど、自分じゃない何かを、

ゲームのキャラみたいに外側からいじって変えてる。

自分の顔は自分である肉体のはずだけど、自分じゃない。

赤ちゃんとか動物が、生まれてはじめて鏡を見たとき、

鏡に映る自分を自分の鏡像だとは理解できず、

「あっ、他人がいる。なんだこいつ。威嚇しよう」みたいになってる動画が、YouTubeにたくさんあるけど、鏡に映る自分はそもそも自分じゃないのか。

でも逆に、鏡に映る自分のイメージをよりカッコよくしたいとか、

周りからカッコよく見られたいとか、

イメージと自動的に同一化する力動も感じた。

ワークブックのどこかでは、肉体に関する心配は、

「自分ではないものになろうとしているから、死を崇拝している」

みたいに書かれた文章があった。

引用は、中央アート出版『奇跡講座ワークブック編』より。