呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。

「皿洗いは犠牲」

父は皿洗いを決してやらない。

仕事で疲れているのか、何なのかわからないけど、休日でも、

とにかく皿洗いは決してやらず、皿にティッシュやらゴミを残したままにして、「こういう仕事は、オレはやらないから。」という感じ。

それが、赦せない。 

ゴミくらい、自分でゴミ袋に入れるべきだ、態度が傲慢だ、と感じる。

不満。

そして自分が皿洗いをしようとすると、

「自分だけ犠牲を払う感」を感じる。

「父だけ、皿洗いをしないのはズルい」という感じが無意識に出てくる。父は父で、「息子だけ働いて金を稼いでないのはズルい、

俺はあれもこれもやってる、俺だけ犠牲を払ってる」と思ってる。

つまり、お互いに、全く同じように、

赦せない思いや不満を向け合っているわけで。

「オレのおかげなんだからな」感を。

心のレベルでは、全く同じことやりあってるだけか。

「争いは同レベルでしか起きない」のね。

ただ、全部幻想だから、赦せる、とはなれない。

肉体の疲労や苦痛をリアルだと感じてるから。

そうすると、「自分だけ犠牲払って、苦しむのは不当だ、

おまえも、俺と同じ苦しみを味わえよ」という感じになる。

テキストのどこかに、「救済とは、誰かが利益を得るのに、

他の人が犠牲を払う必要がある、という考えが訂正されることである」

とあった。

他の誰かが犠牲になるという知覚。

母が皿洗いをやるとき、申し訳ない、と感じる。罪悪感。

自分が働いても、他人が働いても、結局、「誰かが犠牲になる」

という世界観から、脱出できない。

犠牲の配分が変わるだけ。

皿洗いに限った話じゃないけれど。

テキスト8章に、「肉体と同一化するなら、あなたは重苦しさを感じる」

とある。

何か行為する以前に、そもそも肉体化してる時点で、既に重苦しいのか。

デイビッドは、「自分が実在する肉体を持ってると考えるなら、

それ自体が既に傲慢です」と言ってた。

デイビッドの、

「皿洗いを行為者としてやるなら、それはプライドです」という言葉。

「仕方ないから、肉体の自分が、犠牲や苦労を払って、貢献してやる。」

という、

「オレのおかげ感、オレが犠牲を払ってやってあげてんだから、

感謝しろよな感」なのか。

「仕方ないから、自分が苦労を買って出るか」みたいな、

犠牲感、苦労感あるんだけど、オレがやらなきゃだから、

善行をやってやるか、みたいな気持ちのときは、たしかに、

心が重い。義務感。強制感。妥協感。代わりに報酬が欲しくなる感。

ファンクションそれ自体が目的じゃなくて、罪悪感から解放されたり、

自分の価値や貢献を証明したりするための、手段になってる。

デイビッドやフランセスは、

「正しい心からは、手段と目的は一致している。」と言ってた。

ファンクションという犠牲、苦労の先に、「未来の救済」がある、

だから、苦しい今を耐え忍んで、未来の救済を待つ、のは違うはず。

皿洗いが、何かを稼ぐ手段になるのは違う。

もっといい道があるはずだ。

その道を、教えてほしい。

L1この場所に見えているものには、何の意味もない。
L2この場所に見えているあらゆるものに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である。

L3この場所に見えているどんなものも、私は理解していない。

L4これらの考えには何の意味もない。それらは、この場所に見えているものと同様である。

L5私は自分が考えているような理由で、動揺しているわけではない。

L6私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

L7私は過去だけを見ている。

L8私の心は過去の考えにとらわれている。

L14 神は意味の無い世界を創造しなかった。

L26 私の攻撃的な考えが、

決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。

中央アート出版『奇跡講座ワークブック編』より引用