呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

与えるのと受け取るのは同じ?

ちょっと前の自分のブログ記事を読むと、

その時は気づいてなかった客観的な、さらに一歩引いた見方で見れて、

「あっ、なるほど!そういうことか!」となるときがある。

自画自賛じゃないけど、自分で書いた記事を自分で見返して、

なるほどと思わされる、という不思議な現象。

与えることと受け取ることは全く同じ、というけど、たしかに、

と納得した。

 

献身への抵抗

https://welcomejwithintention.hatenablog.com/entry/2021/12/08/224500

けんたさんの、「マインドをフルにファンクションに与える意欲を持つと、

スピリットからのものではないものが出てくる」

という言葉に、何か感じるものがあった。

自分は、Jennyさんの動画の翻訳をできる範囲でもやりたいと感じて、

Jennyさんと話すことになったけど、

実際には、「自分を全面的にファンクションに献身したら、

すごく疲れるし、もし翻訳とか誤字で失敗して、

それを動画に字幕付けすることになりでもしたら、

自分のミスが残ることになるし、

全面的に献身することはあまりにリスクが高すぎるから、ムリだ。」

という、抵抗感が強く出てきた。

「自分個人の自由、安全さ、リスクのなさ、気楽さ」

を、優先したい、守りたいという気持ち。

「ファンクションで役に立てば、自分の価値、貢献度を高くできる、

俺は役に立ってる感、自分にはちゃんと誇れる仕事や役割がある、

という感も、得られるかな」みたいな、

ファンクションを自分個人の手柄にしたい気持ちにも、気づいた。

Jennyさんは過去の動画で、

「デイビッドのコミュニティに住み始めたとき、

本当にデイビッドは信頼に値するのか、デイビッドに自分を預けて、

本当に大丈夫なのか?という、強烈な疑念や恐怖が沸き起こって来た」

と言ってたけど、いざ、自分が関わっていくことに直面するとなると、

無意識に自動的に、自分を守りたくなる。

やっぱり、個人はリスクを避けたい。

カンフォートゾーンに留まりたいとか、安全な位置に隠れていたい、

という気持ちが強く出てきた。

「I Married Mystic」で

カースティンさんはニュージーランドに帰りたくなったときがあった、

自分で人生を自由に選択できない、という生き方に抵抗を感じたときが

あった、とあったけど、何か、

「自分の自由時間とか、気楽さみたいなものを、守りたい」

という感じが強く出てきている。

加藤さんも、「コースの翻訳は全面的なコミットが必要な仕事だと

わかってたから、2回も翻訳チームへの誘いを断った」

と書いてたのを思い出した。

 

 

 

 

JennyさんとMatthewさんとのZoomと、ファンクションへの抵抗

前に、Jennyさんhttps://www.jennymaria.org/acim-spiritual-guidance/

からコールしましょうと言われて、怖くなったことを書いたけど、

ちょっと前にJennyさんからZoomのコールが夜に実際にきて、

「やばい、マジでコールが来ちゃったよ!」とかなり焦り、緊張した。

単語がCallだからてっきり電話するのかと思いこんでいたら、

Zoomのコールで、自分のカメラをオフにする操作がわからず、

PCにまだzoomを入れてなかったので、

カバーが壊れてカメラが隠れたスマホで、

自分の顔が右上の4分の1しか映らない状態で、

スペインのJennyさんとMattewさんと話した。

今考えたら、海外の人と直接話すのは、大学以来7年ぶりで、

しかもギャザリング動画とかでよくデイビッドの

隣にいるのを見てるJennyさんだから、かなり緊張してしまい、

まともに英語の文章を作って話すという作業ができなくなった。

Jennyさんたちの動画を見て、この動画の翻訳がしたい、

ブログで書いたりしたい、と強く感じて、

Jennyさんにメールしたはいいものの、

いざやるとなると、何か、自分がファンクションに飲み込まれるような、

これ以上入ったら、これ以上関わったら、

これから先はもう後戻りはできないよ、

というデッドラインに直面したようで、

どこからともなく、崖際に立たされたような、

かなり強烈な恐怖と抵抗感を感じた。

これ以上進んだら、マジで自分は、

「そっち側」の世界、目的に献身して進むことに巻き込まれていく、

みたいな感じがした。

デイビッドは、コミットメントへの恐怖と言っていた。

後戻りできなくなるとか、犠牲への恐怖という感じか。

こういうことを、上手に英語で話すことはできなかったから、

「意欲は強く感じたものの、翻訳に抵抗感や強いストレスを感じていて、

正直、翻訳できてない、」と情けなさを感じながらも、

単純な英語でJennyさんに伝えると、

「じゃあ、無理に自分をPushしなくていいですよ。」

と言ってもらえて、ほっとした。

どこに住んでいるの?あなたが住んでいる場所は寒いの?という、

大人と子供みたいな、優しい会話をした。

Jennyさんは、本当に優しかった。

Jennyさんのサイトを見たら、

自分はJennyさんの息子さんと同い年だった。

自分が海外の2歳児くらいの英語しか話せず、

しかも自分から申し出ておいてファンクションもできないという状況に、

かなり情けなさ、みっともなさを感じた。

これじゃ日本人の恥だな、みたいな。今思えば、罪悪感か。

学生の頃、英語を正確に読むのがある程度得意で、

高校でも大学でも、教師に褒められてた。

かなり認めてもらえてた、という自負、

プライドがあったにもかかわらず、

いざとなると、

うまく言葉も話せない幼児同然で、自分の価値や「デキる人間感」

を証明する手段も全くなく、かなり自分はダメなやつ感が出てきた。

Zoomが終わった後、

単純にJennyさんたちと話せた嬉しさはあったものの、

ひたすら、Jennyさんに自分のカッコ悪いところを見せただけだった、

ハァー情けない、という「やってしまった感」が強く残った。

「I Married Mystic」に、

カースティンさんがマウンテンバイクで事故をして手足を骨折し、

自分では何もできなくなり、自分で自分の面倒を見られる、

というプライドに直面して手放すことになった、とあったけど、

そんな感じだった。

「デキる自分」「カッコよく英語ができる自分」

「周囲に胸を張れる、能力とかで価値を証明して誇れる、

引け目を感じない自分」でありたい、という自己概念への、

執着に直面する機会だったのかな。

ありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

勉強会の申し込みと屈辱とエホバの証人

のりこさんの勉強会に申し込もうとして、カードがなくなっていたから、

自分で預金口座を強引に開設しようとしたら、

母が、郵貯の紙の通帳口座を渡してきた。

なんと、母が隠し持つように持っていた。存在自体、知らなかった。

ある程度、お金が残っていたので、これなら申し込みができると思い、

振り込みに行ったら、通帳の磁気がダメになっていて、

再発行が必要、と言われた。

再発行には、保険証とか、身分証がいる。

しかし、よりによって保険証をなくしてしまっている。

運転免許もないため、保険証がないと、どうにもならない。

母親の口座を使わせてもらうという手があるけど、母にとって、

コースは怪しい新興宗教でしかない。

「あんた、またあの怪しい女の人の口座に振り込むの?騙されてるよ。

あんたは、新興宗教に洗脳されて、お金を騙し取られてる。」

という目で見られるのが、嫌すぎて、屈辱すぎる。

心が、痛々しすぎる。母に頼らざるを得ないという、

情けなさも、あるか。

または、「のりこさんにお金を払う」という行為に、自分でも、

躊躇や疑念があるのか?

だから、母の疑念に満ちた目線が痛々しすぎて、申し込めないのか。

新興宗教といえば、

田舎で育ったからか、エホバの証人なんて生で見たことがなく、

デイビッドの話で聞いた程度の、

半分ファンタジーの妖精みたいな存在だったけど、今日、散歩中、

人生で初めて、エホバの証人の年配の女性に、

「もうすぐ、苦しみも争いもない世界がやってくる!」と、 

話しかけられた。

幻の妖精みたいなレアポケモンを見つけた気分で、

「これがウワサのアレか!」と、全く恐怖を感じなかった。

むしろ、散歩中、知覚の訂正と奇跡についてずっと

考えていたので、これは素晴らしいシンクロだと思い、

「いや、ちょうど今、あなたと同じことを考えていたんですよ!

感動しました!」と言いながら、両手を広げてハグしようとしたら、

エホバの証人の女性が、「きゃっ!」と言って怖がった。

レアポケモン捕獲失敗。

エホバの証人の勧誘が大歓迎されるとは、まさか思わなかったのか。

子どもの頃、エホバの証人とか、宗教系ってこわいよな、

何て言って断ればいいのかな?とか思っていたけれど、

まさか自分がエホバの証人の人に怖がられる日が来るとは。

エホバの証人の人より、のりこさんたちやデイビッドのほうが怖い。

心に迫られる恐怖。

デイビッドからFBの友達申請が来て、嬉しかったけど、なんか怖くて、

緊張感があり、何も話せなかった。

今敏の記事でもあったけど、会いたい人たちほど、会うのが怖い。

 

 

 

 

赦せない気持ち 『自分と同じ苦しみを味わえよ』

まえに、いくたはなさんの記事を貼ったけど、

またいい漫画の記事があった。

https://woman.excite.co.jp/article/child/amp_BabyCalendar_22877/

いくたさんが3人目を妊娠して、旦那さんが育休を取る決意をしたとき、

本来なら、夫が家にいて育児に協力するわけだから、

悪い話ではないはずなのに、

「体調を崩した子どもの迎えに行くために、

自分は職場を早退したり、長く休んだり、肩身の狭い思いをしたのに、

夫は育休を取って、しかも子育てに協力するいい夫みたいで、ずるい、

夫にも、同じ辛さ、苦しみを味わって欲しい」

というダークな気持ちがあることに気づいて驚いた、という内容だった。

「他人にも、自分と同じ苦しみを味わってもらわないと、納得できない」

という気持ち、前の自分にもあった。

自分は高校に進学するとき、周りから偏差値が比較的に高い進学校

勧められて、工業高校とかに行ってなじめるタイプの性格じゃなかったし、地方であっても、頭の良い子が集まる学校なら、

分かり合える、波長が合う子が多いのでは、という気持ちもあり、

進学校を選んだ。

でも、親とかが喜ぶから、大学進学を明らかに期待してる親が認めるだろうから、進学校を選ぶしかない、という気持ち、

強制感、犠牲者感があった。

これしかまともな選択肢が用意されてないんだから、

これ選ぶしかないじゃん、という気持ち。

小さな頃から大学まで、頭の良さを認めてもらえない、

ということはほぼなかったタイプだったけど、それだけに、だからこそ、

進学校に行って、自分より賢い、頭が良い子ばかりだったら、

どうしよう?劣等感に悩まされるんじゃないか?」

「自分の長所、取り柄、価値の証明は、

周りよりも明らかに頭が良いこと、

知識もあって、より進歩している子であることだったけど、

そもそも、頭の良い子が集まる場所に行ったら、

自分はそんなに特別じゃない、

実は、大したことない存在、自分を特別だと思いこんでいた、

愚かな、井中の蛙だったことが、順位とかでハッキリしてしまい、

挫折して、自分の無価値さ、情けなさに直面するのでは?」

という恐怖、プレッシャーが、あった。

それで、妹が進学した学校は、自分の学校より偏差値が低い学校だったことに、「赦せない気持ち」を感じた。

自分は長男だし、期待もあったし、

進学校に「行かざるを得なかった、行かされた、他に逃げ道もなかった」

にもかかわらず、妹は、それほど頭の良い子が集まるわけではない、

比較的に楽で、余裕がある学校に行けたのが、赦せなかった。

しかもその学校は、以前までは女学校で、そこに進学する男子は少なく、

なんか、ほぼ女子だけの環境で平和な場所を築いてるようで、

その平和さへの羨ましさもあり、逆に見下す気持ちもあった。

自分は進学校に「行かされて」やたらに頭の良い連中と一緒になり、

劣等感を感じたり、劣等感を覆すために、逆に模試で全員負かして、

自分の頭の良さを証明したりしなきゃならなかったのに。

妹だけ、平和な場所に行かしてもらえる。

女の子だからか、2人目の子だからなのか。

それで、妹に、「逃げるのか!」と言ってしまった。

偏差値が低い学校に行くのは、自分の限界まで挑戦しないのは、

「逃げ」だろう、という感じで。妹は何も悪くなかったのに。

いくたはな さんと同じ。

相手が、自分より、楽で平和な環境に行けるのが、ゆるせなかった。

自分がコースをはじめて、大学を辞めて、

働かずに家にいると、親や祖母が、

「働かないなんて、ありえない!

結婚して、子を持って家庭を築くことを目指して生きないなんて、

ありえない、おまえなんかホームレスになって、

働いて金を稼ぐ辛さを味わえよ!」

と、さんざん、言ってきた。

「毎日毎日苦しみながら、

働いて結婚して子を育てる、っていう既定路線、

決められたレールの人生の苦労をしない子どもが赦せない、

おまえもオレたちと同じ辛さ、苦しみを味わえよ!」

という、気持ちが見てとれた。

それで、自分も祖母や両親に赦せなさを感じ、

「戦中生まれの祖母、戦後の昭和に生まれ育った世代の父母には、

新しい世代の生き方は、理解しようもない、ネットで、

海外の人と交流して、新しい世界を学ぶなんてこともできなかった世代だから、エゴの狭い世界観から脱出できないのは仕方ない、

鎖国してた江戸時代の、地動説も知らない日本人に

量子力学を教えたって無理なのと同じで、

新しいものの見方や価値観を教えたって仕方ない」

という感じで、自分は自分で、親や祖母を、

「新しい価値観にはとてもついてこれない、

日本というちいさな閉鎖空間の価値観に縛られてる、

昭和の古い化石みたいな人間たち」

という感じで、差別している気持ちはある。

逆に、「昭和世代」の両親や祖母たちは、

「若い世代は軟弱で、自分の限界や、苦労や辛さからすぐ逃げる、

弱い世代だ」と見ている。 

自分が妹に、高校のときにやったみたいに。

祖母や両親の価値観を代弁するかのような、

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という言葉に、いやそれは違うだろ、

戦時中の価値観をいつまで引きずってんだよ、と感じる。

「苦しんだやつこそ、偉い。苦しんだやつこそ、尊敬に値する。」

という、価値観が真の現実だと、疑いようもないほど、

すっかり思い込んでる。

「自分たちは人生で苦労したから、若いやつらにも、

同じ苦しみを味わわせてやる」という、両親や祖母の気持ちに、

赦せなさを感じて、

「おまえらみたいな、狭い井戸の価値観で生きてきた

昭和の世代に何がわかる!」みたいになってる。

デイビッドやフランセスたちも、やはりコースをはじめたときは、

親との葛藤があったらしい。

デイビッドの父親や、フランセスの母親は、デイビッドやフランセスの心が変わるにつれて価値観が変わったらしいけど。

両親たちがあれこれ言うのに動揺して、反応してしまったのも、

自分の中に、犠牲や苦労がリアルだ、人生とは苦しみなんだ、

という知覚があって、それが反応していたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤毛のアンと孤児

テレビでやっていた、海外の実写のドラマ版の、赤毛のアン

孤児院出身で、赤ん坊の頃に両親は熱病で亡くなった、

と思っていたアンが、

本当は自分は両親から邪魔もの扱いされて、捨てられたのでは、

という強い疑念や恐怖に駆られて、

孤児院に行って両親の記録を確かめる、という回だった。

赤ん坊だったから記憶がなく、自分が愛されていたのか、

どうしても確信が持てないアン。

アンとたぶん同い年で、アンのように引き取られず、まだ孤児院にいた、

見るからに地味な服を着ていた女の子は、

成長して、それなりに美しく着飾ったアンを見て、

「こぎれいな服を着て。中身は汚れているのに」と、

憎悪と嫉妬を露わにしていた。

孤児院は、まさに、親と一緒にいられなかった子どもたちの、

悲しさと不幸さ、不遇さ、世界への怒りの象徴みたいだった。

ドラマ版の脚色なのか、父親がいない黒人の青年のストーリーもあった。

母親が再婚し赤ん坊が生まれ、

自分は見捨てられて、邪魔もの扱いされてる、

どうせ自分は愛されていないんだ、という感じでひねくれていた。

アンも黒人の青年も、孤児院の女の子も、

みんなそれぞれ、自分は親から愛されてない、見捨てられたんだ、

だから不幸だ、だから怒りや嫉妬や不満や恐怖は正当化されるんだ、

「あの人たちは幸せだけど、自分だけは運命に呪われ、

みじめで不幸なんだ」

という世界観で生きていた。

アンの養母のマリラが、

アンが無謀な遠出を繰り返すのを心配して、

引き留めていたのを不満に感じたアンが、

「何でそんなに引き留めるの!?」と問い、

頑固で厳しい性格のマリラが珍しく、

「あなたを愛しているからです!」と大声で言い放っても、

アンは満足しなかった。

どうしても、血の繋がった両親からの愛を証明したい、確かめたい。

「自分は愛されてなかったのでは」という強い疑念、信念があるから、

マリラの愛を目の当たりにしても、全く安心できない。

先に幸せを手に入れたかのようなアンを恨んでいた孤児院の女の子が、

「あなたは愛されていたし、今も愛されていますよ」と言われても、

真実を言葉で説明されたけど全力で否認した涼宮ハルヒみたいに、

「いや、そんなはずはない。わたしは見捨てられたから、不幸なんだ」

という世界観に縛られて、たぶん疑わずにはいられない。

黒人の青年も、母親に愛している、と言われて、

実際愛されているにもかかわらず、

「母が再婚して赤ん坊も生まれ、幸せな家庭をやっと築いた家で、

私生児で酒を飲んで、出来の悪い自分は嫌がられて、

邪魔もの扱いされてるに違いない。絶対にそうだ」

という世界観を、なんとしても譲らないで、

オレはなんてかわいそうなやつなんだ!という感じになっていた。

自分は子どもの頃、家が貧しいとか、

親から捨てられたとかはないにもかかわらず、むしろ愛されて、

親戚とかからはかなり可愛いがられてもいたにもかかわらず、

何か、漠然とした不幸感、不遇感、疎外感、分離感、

幸せや喜びをもたらす、

何かが決定的に欠けている感、孤児院にいた女の子みたいに、

自分はずっとこのまま死ぬまで不幸なんじゃないかという恐怖があった。

子どもの頃のあるとき、

自分より友達が多くて、面白いことを言ってウケをとる

センスが良かった、

仲が良かった男の子に、

「◯◯くんは友達が多くていいよね。女の子も気軽に話しかけてくるし」

と言った。

本心から、羨ましかった。

その子は誰からも気軽に話しかけられる、友達が多い男の子だったけど、

自分は友達を増やしたりするのが極度に苦手だった。

するとその子は、「いや、◯◯くんのほうが幸せやろ!」

と、おまえ何言ってんだ、みたいな感じで怒ったように言ってきた。

それを聞いて、

「自分は怖くて女の子にも話しかけられないのに、

親しい友達が多いそっちのが幸せに決まってるだろ」

と思ったけど、その子はその子で、

不遇感があったのか。お互いに、他人の芝は青いという感じで、

「相手のほうが恵まれてる。いいよなぁ、こいつは」

と思ってたのかもしれない。

デイビッドが、物理的な家や家族に恵まれていても、

分離を信じていたら全員ホームレスだ、と言ってたけど、

親が生きていても、家族が友人に恵まれていても、

分離を信じていたら孤児なのか。

まさに子どもの頃は、実家にいても、

何か本当の我が家にいるわけじゃない、疎外感、孤独感を感じることがあった。

つながりを感じる、我が家に帰ってきた感、ほっとした暖かい感じがない、疎外感だった。

コースをはじめて、みんな同じなんだ、

というのがだんだんと実感されてきて、やっと疎外感が減ってきた。

それで、自分が待ち望んでいたのはまさにこれ、この同じ感、

つながり感なんだ、とわかった。

やっと我が家に帰ってきた感。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遅刻の罪悪感

ミーティングに遅刻してしまう罪悪感、

ルールをほかの人のようにきちんと守れず、

はみ出してしまう自分のダメなやつ感、場の雰囲気を乱した感、

無価値感があったことを話せて、

救われた感じがあった。

スクリーンで起こったことが原因ではなく、

心のレベルに眠っていたものに光りを当てるために、

何かしらのストーリーが展開される、

目的は形や行動を自分の定義や固定観念に合わせて完璧にするのじゃないんだ、

ということをKさんに確認させてもらえた。

あーよかったという感じだった。

ただ、ストーリーがきっかけで

自分の罪悪感とか無価値感に触れるときは、単純に恐怖もあるし、

内臓に非常に不快な嫌な感じがする。

そんなときも、

目的は形、成果やアウトカムを完璧にすることじゃなくて、

あくまでも心や知覚に訂正を求める

きっかけにするのが目的なんだ、

ということを思い出したい。

それをする余裕がないときもよくあるけど。