自分がムッとしたり何かについて
赦せないと感じても
それを打ち明けようと思うと何か怖くて、
言ったら負けみたいな屈辱感もあったか、
ノドにつかえるような感じと腹にググッ...と抵抗感だった。
家族で出かける時、
父はコンビニとかに寄ると平気でコーヒー缶とかゴミを捨てていた。
それを見る度、
「あっこいつまたやりやがった!」
と内心呆れて怒っていた。
「家庭ゴミは持ち込まないで」って書いてあるのに。
それを抵抗感を感じながらある人に打ち明けると、
「何でダメなの?」
→自分:お店の人に迷惑がかかるから。
ゴミ出しの作業が増えて疲れるだろう。
仕事が増えるから。
→つまり、誰かを犠牲にできる、苦しみや犠牲者がリアルだって
信じているってことだね。
と言われて、ハァー...そうかとなった。
レッスン24の攻撃の想念。
何で、自分の動揺とか怒りとか恨みとか惨めさとか
「打ち明けたくない」と感じるんだろう?
と思った。
相手に厳しく言われて自分が痛い思いをするんじゃないかとか
何か自分の弱みというかダメなとこを晒す屈辱感(プライド?)
とかあるけど
正直に打ち明けたら、
心まで辿って自我的な信念を手放さざるを得なくなるから
それが何か嫌で屈辱的だった。
確かに負けるというか、、
「自分が間違っていた」ことを証明されて
わからされる、
その瞬間の屈辱感・敗北感はあった。
同時に、安心感というか救われた感じ、
あーよかった、ありがてぇ〜
もあった。
「打ち明けたくない」って、
手放したくない、
それが間違いというか妄想だったって
証明されたくない、
みたいな気持ちなのか。
まるでトイレを我慢するみたいに。