呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

映画リトリートThe Nines の予告とハルヒの憂鬱

https://youtu.be/FcKI3eUmz_k

ザ・ナインズという映画では、主人公ゲイリーが、

自分で作って登場人物を配役した世界・宇宙の中で、

そのことをすっかり忘れて、小さな登場人物になりきっている。

というのを聞いて、『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメを思い出した。

学生の頃に、ハルヒの憂鬱のMAD動画を動画サイトで見たとき、

「こんなオタクっぽいアニメ、

どうせかわいい女の子とイチャイチャするだけで、

中身のない、薄っぺらなアニメだろう」

と思ったら、

The Ninesと同じで、女の子が無意識のうちに自分の願望で

宇宙を作っているのに、全く気づかないでいる、

という壮大で哲学的なSFアニメだった。

後で調べると、原作者は、大学で哲学や宗教を研究して、

奇跡講座と似ているキリスト教グノーシス主義に詳しい人だった。

アニメの話の中で、脇役の男の子が、グノーシス主義の説明をして、

ヒロインのハルヒという女の子は宇宙を創造する力を持つデミウルゴス

みたいな存在だけど、そのことに全く無自覚で、

自分は小さな人間だと思いこんでいる、という説明をする。

ハルヒは、自分は無力な世界の被害者だと考えて、

退屈な学校や社会に不満を持ち、いつも不機嫌で、怒り、

世界の中で何かを成功させて幸せになろうと活躍して奮闘するけど、

性格はひどく自己中心的で攻撃的で、

実際には世界が自分の無意識から誤創造されているということを

直接言葉で説明されても、

「そんなバカなこと、常識的にありえない」と全く信じない。

とにかく、世界の中で被害者として、

またはヒーローになるのに無我夢中で、

それは真実じゃないよ、とハルヒの世界観に矛盾することを

告げられても、頑として耳を貸さないので、

主人公の男の子はついに説得を諦める。

ハルヒが気の弱い女の子を殴っていじめて、無理矢理言うことを聞かせようとするシリアスなシーンがあって、

最初に想像したようなアニメっぽいかわいいヒロインじゃなくて、

自己中心的で気が強い、周りの人や世界をなんとか力づくで

支配しようとする、本当に性格の悪いいじめっ子として描かれていた。

ハルヒが、小学校のグラウンドに、いたずらで宇宙人に向けて、

白い粉を地面に落として白線を引くやつで、超大きな文字で書いたのは、

「わたしはここにいる」という意味の文字で、

ジーザスがビルに与えた、「主よ、わたしはここにおります」

と言葉は似ていても、意味は逆で、

人間としての自分を主張する目的だった。

マトリックスみたいに、ハルヒか何かを願うと、

物理法則も無視して、猫が突然喋ったり、超常現象とか、デジャヴとか、

存在しないはずのものが現れたり、

ありえないことがいくつも起きるのに、

ハルヒ本人は無自覚だから、まったく気付かず、

自分の世界観を変えることだけは絶対にしない。

テキストの最初の方に、あなたは本当は莫大に強い心の力を、

無力だと思いこむことによって、

罪悪感の自覚を軽くしているとあったけど、まさにそんな感じ。

ハルヒは世界に不満を持ち、

自分の計画と判断で世界をなんとか歪めて制御しようとする。

それに振り回されて、周りの人が苦労するというアニメ。

エピソードが時系列じゃなくて、バラバラで、最後のエピソードが最初の方にあったりする。

デイビッドが大学で都市計画を何年も学んでいたときの話で、

「あなたたちも、自分が何かを学んでいて、

『自分がこれを人生で使うことは決してないだろう』と思ったこと

があるでしょう」と言っていた。

自分は法学部の授業で、民法の教授の女性が、

授業中に話したエピソードで、

教授の子どもを保育園に入れてもらえなかったとき、区役所の人に、

「保育園に入れてもらえないのは規約違反だ。

ウチの子を保育園に入れないなら、裁判に持ち込む。

わたしは法律の専門家だから、絶対に負けない」

と、法律の知識で区役所の人を脅して、

子どもを保育園に無理矢理入れさせた。

だからあなたたちも、法律を学べば、今後の人生が有利になりますよ、

と言ったとき、こんなのは嫌だ、ハルヒみたいな傲慢な人じゃなくて、

エックハルトトールみたいな人から学びたいと思った。

デイビッドが、この世界にいる人は誰もが、

幽閉感、閉じ込められた感覚を抱いている、そして旅行したりして、

肉体の自由を追求するけど、それはうまくいかない、と言っていた。

自分も、家の中にいると、なんとなく窮屈な感じがするんで、

散歩に行ったりしてたけど、これも「肉体の自由を追求する」

ことになるのか。

デイビッドが、「ジーザスは救済を、『わたしは自分が何なのか、何をしているのか、どこに向かっているのか、自分や世界をどう見たらいいのかも、全くわからない。』と表現しています。

これが、私たちの向かう方向です。」と言ってたけど、

確かに、ハルヒ民法の教授みたいに、「自分が何者で、何をしていて、

自分と世界の定義も完璧によく知ってますから。」という態度、

I know mindだと、今いる世界にしがみつくだけになる。

「私は何も知らない」が必要なのか。