呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

ホームレス

https://ameblo.jp/up4528/entry-12700624044.html

あきなさんの記事です。

のりこさんのお父さんや、ジャンポルスキーさんとかデイビッドとか、他の方のホームレスの人との奇跡的な話を聞く度、自分はホームレスを助ける側じゃなくて、ホームレス側に感情移入してしまう。

奇跡講座を始める前も後も、大学や社会に無意味感を感じ、絶望感と無意味感で体が動かなくなり、何ヶ月も風呂に入れないのが普通だったから、ホームレスを見ても、あっ、自分と同じか、としかならない。「夜と霧」で、強制収容所の人が、解放される希望を失うと、絶望感で体が動かなくなり、そのまま風呂に入らなくなって死んでしまうとあったけど、まさにそんな感じ。

4ヶ月以上風呂に入らないと、たしかに、周囲で鼻を使うことはできなくなるし、自分は誰からも愛されないし、避けられる存在だという感じになる。ちょうど、千と千尋のオクサレ様のように。例え話で、何週間も風呂に入らないなんて普通ありえないでしょう、と、ある奇跡講座の講師が別の人に言ったのを聞いて、それに対して怒りを感じるわけじゃないけど、そういうふうに、「清潔な人」は、風呂に入るか入らないかで、分離するよな、と感じていた。ただ、風呂に入らないのは、前に進むのが怖い、変化への恐れでもあった。また、肉体が清潔な自分を愛することはできても、こんなに汚れた自分を愛することはできまい、どうせ人間の愛は、そんな程度の薄っぺらい見せかけの愛なんだ、という気持ちもあった。ニセの愛の化けの皮をはいで、勝ったような気持ち。障害者連続殺人事件の犯人が告白文で、自首したとき、包丁でできた指の傷に貼るための絆創膏を警察に頼んだら、絆創膏すらもらえず、もはや自分は絆創膏すらもらえない犯罪者で、咎められ、非難されるばかりで、

もはや二度と大切にしてもらえない犯罪者になってしまったと感じた、という趣旨のことを書いていた。まさに、ホームレスはそんな気持ちだと思う。マザーテレサに救われた人たちも、もはや愛や希望を感じる可能性は完全に絶たれた、もう死ぬだけという感じだったろうと感じる。愛から断絶して、橋が架かることは決してない、オレは知っているんだ、希望を持っても、どうせガッカリするだけでバカを見て損だから、騙されないぞ。という感じ。