罪悪感や怒りから行動
昨日の夕方にインターホンが鳴って、
出ると、かなり大きめのダンボールが届いた。
いつもネットで物を買うのは父なので、どうせ父だろうと思った。
父は2階にいたせいか、インターホンに出ることはなく、
自分が宅配を寒い中、受け取ったということに、何か、
微妙に使われた感、犠牲にされた感、不当に扱われた感、を感じた。
激怒とまではいかないから自分でも、
はっきりとは意識できなかったけど、今思えば、
底流に微妙に怒りを感じていて、
大きめのダンボールを玄関に置いたら母が帰って来るとき邪魔になるだろうというのもあったけど、父に当てつけのように、
階段の下の物置の見えやすいところに置いた。
結局、ダンボールは母が頼んだものだったので、
階段の下の物置より、居間に運んだ方が良かったし、
そもそも父が頼んだものじゃなかった。
怒りから行動したら、全く間違った被害者意識の解釈からしか、
動けてなかった。
その後、エゴ状態から動いたら何をどう行動しても、
必ず罪悪感を感じることになる、というお話を聞くことになり、
完璧に自分に当てはまることだと思った。
その数日前も、母の家事を小さな事で手伝おうとしたら、
むしろ邪魔になっただけだった、ということがあった。
そのときも、母への微妙な罪悪感や申し訳なさから行動していた。
そのときは、自分では良かれと思ってやるものの、
結局いつも、家事とか些細なことでも、
自分が間違って被害者や加害者がいるという解釈をして、
結局、間違えた解釈と間違えた行動をしてた。
聖霊に尋ねなければ、自分では何もできない、って、
本当だな、と今更だけど実感した。
そういえば漫画の『それ町』は、作者が推理モノが大好きな人で、
「主人公やキャラクターが、
日常的な状況を自分で勝手に深刻に解釈して、
間違えた解釈に基づいて行動してしまう」
というシーン、パターンが何度も描かれる。
外見や名前や過去の連想で、
自分で勝手に人や状況を判断して、間違えた解釈をしたり。
自分も、そういうことを日常的にやっている。
『それ町』は、コースに出会うのと同じ時期に、京都の本屋で、
『なんか、良さそう』と感じて買ったけど、
キャラクターが自分の願望や過去の連想で勝手に状況を解釈しては、
間違える、というのを繰り返し描いていて、
自分にとっては、まさにコースの学習にはピッタリだった。