呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

議論の楽しさ、負かす楽しさ、罪悪の魅力

マニュアルかどこかに、

「議論を探す者は、議論を見つけるだろう」というような言葉があった。

中学生の頃、オンラインゲームのSNSで、

議論してケンカしたときがあった。

自分の意見や信念とかに反対する人や意見を見つけると、

自分自身を否定されたように感じ、ムカつきを感じ、

論理とか議論で相手を必死に負かそうとした。

言葉や論理で戦うなら、負けない自信があった。

実際には、国語のテストみたいに正答を出しても、

相手はなんとかいちゃもんをつけるから、議論がいつまでも終わらず、

2人とも疲れ果てて、

「もうお互い疲れたからやめましょう。あなたも強かった」みたいなことを言いあって、終わりになった。

言葉で上手く他人をコントロールするというのを、

4歳くらいの頃に既にやっていた。

他の子を言葉巧みに誘惑して、虫を血が飛び散るように派手に潰したり、

ミルクを高いところからガシャンとこぼしたり、

そういう、保母さんや大人に見つかったらほぼ確定で怒られる、

「ギリギリ罪判定のライン」のことをやらせるというのを、

記憶では幼い頃に2回やった。

罪悪の魅力。

村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」か何かで、

他人を言葉で巧みにコントロールして欲望につけこみ不幸にするという、

ラスボス的キャラのねじ緩め鳥?か何かがいたけれど、

まさにそれ、だった。

他の子がいて、この子に今、この言葉を吹き込めば、

この子は我慢できず、おそらくこれをやるだろう、

というのが一瞬で理解できるから、

耳元でその言葉を囁くと、その子はそれを実際にやった。

それがあまりに計算通りに行ったから、逆に怖くなった。

実行犯は他の子だから、他の子が怒られるわけで、

自分はまったく安全という、ある意味完全犯罪だった。

ただ、いたずら程度のことでも、罪悪感は強く感じた。

怖いもの見たさみたいな感情でついやってしまったのか。

単に過去の脚本だからそうなったのか。

わからないけど、自分の「邪悪さ・有罪さ」を、

むしろ自分で自分に証明したかったのかもしれない。