マニュアルかどこかに、
「議論を探す者は、議論を見つけるだろう」というような言葉があった。
中学生の頃、オンラインゲームのSNSで、
議論してケンカしたときがあった。
自分の意見や信念とかに反対する人や意見を見つけると、
自分自身を否定されたように感じ、ムカつきを感じ、
論理とか議論で相手を必死に負かそうとした。
言葉や論理で戦うなら、負けない自信があった。
実際には、国語のテストみたいに正答を出しても、
相手はなんとかいちゃもんをつけるから、議論がいつまでも終わらず、
2人とも疲れ果てて、
「もうお互い疲れたからやめましょう。あなたも強かった」みたいなことを言いあって、終わりになった。
言葉で上手く他人をコントロールするというのを、
4歳くらいの頃に既にやっていた。
他の子を言葉巧みに誘惑して、虫を血が飛び散るように派手に潰したり、
ミルクを高いところからガシャンとこぼしたり、
そういう、保母さんや大人に見つかったらほぼ確定で怒られる、
「ギリギリ罪判定のライン」のことをやらせるというのを、
記憶では幼い頃に2回やった。
罪悪の魅力。
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」か何かで、
他人を言葉で巧みにコントロールして欲望につけこみ不幸にするという、
ラスボス的キャラのねじ緩め鳥?か何かがいたけれど、
まさにそれ、だった。
他の子がいて、この子に今、この言葉を吹き込めば、
この子は我慢できず、おそらくこれをやるだろう、
というのが一瞬で理解できるから、
耳元でその言葉を囁くと、その子はそれを実際にやった。
それがあまりに計算通りに行ったから、逆に怖くなった。
実行犯は他の子だから、他の子が怒られるわけで、
自分はまったく安全という、ある意味完全犯罪だった。
ただ、いたずら程度のことでも、罪悪感は強く感じた。
怖いもの見たさみたいな感情でついやってしまったのか。
単に過去の脚本だからそうなったのか。
わからないけど、自分の「邪悪さ・有罪さ」を、
むしろ自分で自分に証明したかったのかもしれない。