「皿が割れた」
リロ・オーロラさんのコーヒーが溢れた経験についての動画。
晩ごはんを食べて、食器を片付けようと、皿を運んだら、
小皿が滑って落ちて、パリーンと音を立てて割れた。
父は、「割れたな、今の音は」
と、さもあーあやっちゃったね、という感じに言った。
自分は音に少し驚いたと共に、足元に母親のバッグがいくつもあったから
大股で歩かなければならなかった、大股で歩いて、足が着地する衝撃で、
小皿が滑り落ちて割れたのだ、
小皿が割れたのはバッグをいくつも置いてあるせいだ、
という思考が怒りや不満の感情と共に頭を一瞬のうちに回った。
そのすぐ後、「This is perfect」という思考がきた。
ひょっとして、小皿が割れたのは完璧だったかもしれない。
小皿の破片をダイソンの掃除機で掃除して、
そのキュイーンという音で、
父がテレビの朝ドラの録画を巻き戻すことになったのも、
全部完璧だったとしたら?
リロさんの動画を思い出して、物事と、それに対する後付けの解釈で、
心がストーリーを作るのがありありと見えた実感がして、
むしろ幸せで嬉しい気持ちになった。
「皿が割れた」のが「悪い、起こるべきでなかった、
防ぐべきダメな現象だ」、という思考が仮に真だとすると、
「皿が割れた」のは、
「全く完璧で、起こるべきで、
完全に起こるべきように脚本通りに起きた」
という思考も、ちょうど同じくらい真実であるかもしれない。
バイロン・ケイティのワークのように。
太った体が美しく魅力的だという思考を真実だと考える人たちや文化があり、
太った体は美しくないという思考を真実だと考える人たちや文化があるように。
両方の真逆の解釈が、全くちょうど同じほど、真実でありえる。
その解釈を信じる心次第で。
小皿が割れる音も、解釈によっては、
全く美しく完璧なメロディーだったのかもしれない。