呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

父とのバイロン ケイティのワーク

 

父は、誰かに「おかえり」と言わせようとして、

怒ったように、脅すように、「ただいま!(怒り)」

という。

わざわざ他人を脅してコントロールしなければならない、

という強迫観念がある。

飲食店や店の店員に対しても、不満があると、

恐怖で脅してコントロールしようとする。

職場でも、これほど分かりやすくはないにしろ、

言外に脅して子どもたちや若い部下をコントロールしていて、

何十年もそれを続け、しかもそれでテストの点数しか気にしない

教育委員会のバカどもから

たいそうに優秀な教師として評価されてきているから、

これが正しいんだと思い込んでいる。

まったく幼稚で愚かな態度だ、

子どものテストの点さえ良ければ満足の、日本の教育システムが生んだ

愚かさだ、、と思い、不満を感じていた。

以下、ワーク。

わたしは父に対して怒っている。

なぜなら、勝手なルールを傲慢にも押し付けようとするから。

それは本当でしょうか?

置き換え1

わたしはわたしに対して怒っている。

なぜなら、わたしは父に対して、勝手なルールを押し付けようとするから。

ここで確かに、父が「おかえり」を言わせようとするかしないか自体は、

そもそも父の自由であり、

誰かに「おかえり」と言わせようとしてはいけない、それは傲慢な攻撃で、

無礼だから、やってはならない、という考え自体が、

自分が無意識に信じていたルールだと気づいた。 

置き換え2

わたしは、わたしに対して怒っている。

なぜなら、勝手なルールを、わたしに対して押し付けるから。

確かに、父に「おかえり」を要求されたら、ただいまと返答しなければ、

という、「ルールの押し付け」を自分に対してやっていた。

 

結果的に、怒った態度で「おかえり」を要求するかしないかは、

完全に、父の自由であるから、それ自体は全く問題ではなく、

それに対して自分が、「おかえり」と言うか言わないかも、

完全に自分の自由であり、言わなくても、全く何の問題もない、

という気づきに至った。

お互いに、自由であり、父には、要求する自由はあるが、

わたしにも、要求を断るだけの完全な自由がある。

という認識により、

何かが問題だ、不満だ、という腹がたつ感じ、ストレスは減った。

たしか教師のマニュアルだったかに、

「依頼者の頼みを、応えられないままにしておけない者は、

癒されてないヒーラーである」という感じの意味の文があった。

つまり、何でも頼まれたら断れず、依頼に応えない罪悪感から、

イエスマンになる人は、NOというのが罪悪感だからという信念に

囚われている、という意味なんだろう。

それは、自分で自分にルールを押し付けていることになる。

デイビッドも、聖霊に従うなら、

YESと同じくらい、NOと言うことにもなる、

と言っていた。

Noかどうか、尋ねるべきなんだろうけど。