呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。

野グソをプロデュース 平安のツール

出来事、 知覚A 田んぼの排水溝で大便をした

について考えるとき、

感情B 罪悪感、恐怖、焦り

と感じる。

思考C  なぜなら、 C1わたしが責められるべきであるし、未来に C2 他人が嫌な思いをして、自分は加害者になるが起こるのを恐れているからです。

信念D これらのことは、わたしが有罪である について正しいことを証明しています。

望ましい状況、出来事E 大便を正しい場所に排出する(!)

祈り 願い 今あるがままではない何かへの願いが、あなたを神の平和から遠ざけ続けています。あなたが真に求めるものをもたらしてくれる唯一のゴールと再び一致するため、今、心の平安を受け入れるために、この欲望を聖霊に捧げる意欲はありますか?

 

 L1この場所に見えているものには、何の意味もない。

L2この場所に見えているあらゆるものに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である

L3この場所に見えているどんなものも、私は理解していない。

L4これらの考えには何の意味もない。それらは、この場所に見えているものと同様である。

L5私は自分が考えているような理由で、動揺しているわけではない。

L6私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

L7私は過去だけを見ている。

L8私の心は過去の考えにとらわれている。

中央アート出版『奇跡講座ワークブック編』より引用

完全にギャグ漫画みたいなタイトルだけど、

赦しの実践エピソードです。

自分は子どもの頃から、お腹が緩い方だった。代弁者かつ大便者だった。

で、秋晴れの昼頃に、田んぼを散歩していると、急にお腹が痛くなった。

トイレに着くまで我慢したいけど、長くはもたないパターンのやつだった。

田舎だから、駅の近くや都会みたいに利用可能なトイレが近くになく、

田んぼの横の排水溝で、やむを得ず用を足すことに。

さすがにマズいか、やばいか、という不安感はあったものの、

トイレまではとても間に合わない。

で、誰かに見られたらやばいかなと思いつつ用を足すと、

さすがに罪悪感を感じた。

間違った行動をやっちゃった感、迷惑をかける、など。

ただ、気持ち良く晴れた秋の青空の下に野グソをするという状況が若干滑稽だったのと、

人間誰でも毎日大便はするんだから、便が着弾する位置がわずかに違うだけか、、それを深刻に捉えて、何も罪悪感をリアルにすることはない。

と思えた。文字にするだけで笑えてきた。

犬や猫はこんな感じで自由に用を足すのか、

あっ、だから犬の散歩ではビニール袋が必要なのか、と思った。

デイビッドが何かのリトリートで、罪悪感を感じる出来事Aの例として、

「inappropriate liquid from certain orifis」

(不適切な液体が肉体のある穴から出てくる)

ということを言っていて、確かに、自我は肉体に罪悪感の原因を投影するのだったということを思い出した。