さんぽと計画
単なる、何てことないさんぽなんだけど、マナーが悪いと知覚される、
車の運転手などに赦せない、敵視する気持ちとか、
若い女の子がいると、かわいい、、みたいな、
思考じゃないけど印象とか、過去の状況に対する気持ちとかが湧いてくる。
それで、「これ家に帰ってブログに書こう」と思うと、
あれ書いて、これ書いて、これも記憶しておいて、となり、
ヤバいヤバい(出川哲郎)、ブログのネタ、忘れちゃうよ。
覚えとかなきゃ。となってた。
フランセスが言った通り、自分はブログに責任持って、
コントロール持ってると思ってるから、ネタになる、
自分の体験や記憶にしがみついて、保存しようとして、忘れたら、
どうしよう、もったいない!ナイスな記事かけたのにー!
という恐怖があったし、自分は記憶を掴もう、しがみついて放すまい、
という状態に巻きこまれ、自分で気づくことも、できなかった。
あー、、掴もう保存しようとして、覚えようとしてた。
デイビッドが、個人の体験や記憶も、結局、個人の所有物だから、
最後には、執着は手放されることになる、と言ってた。
たしかに、いずれ忘れるし、認知症とか、死んだりしたら、
全部消えて、忘れるんだろう。よく、「思い出作り」「いい思い出作りができました」っていうけど、特別な個人の記憶や、体験はオイシイ価値があるから、
保存しておける、って感じなんだな。
写真とかもだし、ブログ自体、
「過去の、自分の体験や記憶を、保存して残したい」という執着なんだな。
イエスが、あなたが執着して、
コントロールする権利を所有してると思っているそのブログ、わたしに差し出しなさい。
と言ってきてる気がした。
たしかに、ブログは、個人の、シェアと赦しのための所有物、自分がスキにできる場所、みたいに思ってた。自分がやりたいように自由に、絵を描かせてもらえる画用紙みたいな。
じゃあ、どうしよう?
祈り、尋ねて、自分を鉛筆として、使ってもらうのか。
親父が、政治家が誰かを批判するのを見て、
「文句ばかり言いやがって、、じゃあどうすればいいか、建設的な代案を出せ。」
といつも言ってるけど、ビルとヘレンにもたらされた代案が、「自分で判断して、コントロールするんじゃなくて、ガイダンスを受け取るわずかな意欲を持つ」だったのか。