呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

さんぽと奴隷感、社会への根深い憎しみ(凶暴な闇、大噴出注意)

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ザ・牧歌的な田舎の写真。自然感が美しかった。(幻想らしいけど、、)トトロの森みたいな景色があった。

長い距離、家の周りの田んぼや道をさんぽした。

足、疲れた。やっぱり、肉体として存在する世界は地獄の苦痛なんだよな、、

撮影旅行は、荷物や機材もあるわけだから、なおさらだよな、

大変だったろうな、、自分は、からだは健康だけど、家に引き込もって、体も動かしてなかったし、撮影旅行やファンクションに参加する体力も、もたないはず。と思った。

さんぽして、少しずつ、リトリートとかの活動についていけるようにしたい、みたいな、マッチョを目指してはいないけど、肉体を鍛える思考があった。さんぽしたのが、よかったかどうかもわからない。目的か。重要なのは。

「生まれた」年から25年住んでるから、家族からさんぽを進められても、

「とっくに近所は知っているし、小さな頃から何百回も道歩いたし、すでによく知ってるがな、歩いても疲れるだけで、何も新しいことは起きないに決まってるよ」と思っていた。 

新しいこと、形のレベルだけど、たくさん起きた。知覚は過去の幻想らしいけど。f:id:ratchet0512:20211001142834j:image

稲刈りが終わって、田んぼの稲の籾殻を集めて燃やしていたのが、煙が出てるのが、目立ったんで、おっ、expansionかもな、と思ってそれに近づくと、あぜ道を、白いトラックが完璧なタイミングで通りがかり、籾殻の前で止まった。運転していたおじさんに話を聞くと、風が強くなったんで、火の様子を見にきたらしい。その人とどこに住んでいるのかなど話した。優しく平和な感じがした人だった。第一村人発見、笑ってコラえて的な展開。第一神の子か、、田んぼで働く人たちからは、田舎生まれで幼少の頃から可愛がってもらっているからか、自然に話しやすい。

おなじみの故郷、慣れてる土地だから、道は全て知ってるしわかってると思ってたら、歩いたことない道が意外にもいくつもあった。新しい景色が見えた。

その後、犬の散歩をするおばあちゃんに通りがかり、こんにちは、暑いですね、あんた近所のどこ住んでるの?◯◯さんとこの家の人か?という、おじさんと全く同じ所属確認の会話をして、少し会話した。 

やはり、老齢の人は、無防備で、スムーズに会話が始まるというか、若い人ほど、拒絶感、バリア感ないよな、と思った。競走感、ライバル感がない。みんな同じ、という平和な世界の匂いがする。個人差はあるにしろ。

一緒に歩いていいですか?というと、いやいい、歩くスピード違うし、と言われ、「やってしまった、また祈らずに、自我的な、誰かと繋がりたい希求から行動してしまった、」と思った。おばあちゃんに気を遣わせ、苦しみを与えてしまったか、というやっちゃった感もあった。祈るべきだったか。これに限らず、誰かに自分の希求を満たすために苦しみを与えてしまった、迷惑かけた、という罪悪感はいつも事あるごとにある。田んぼのおじさんも、別れるとき、パターン的会話だけど、「じゃあ邪魔したね」と言われた。マインドエナジーを遣わせるとか、気を遣わせるとか、少しの苦労でも、いちいち罪悪感なんだよな、、そりゃ不幸だよなと思った。苦しみはあらゆる状況において、間違った見方であるというレッスンを思い出しながら、帰り道、苦痛や苦しみは間違った知覚で、別の道、見方、存在の仕方があるなら、どうか教えてください。と祈った。

相変わらず、苦しみを自覚したときしか祈れないし、助けを求められない。数年前まで自分がいつもライブ配信を見ていたプロゲーマーのウメハラ氏は、もともと介護士で、

「介護の現場は競走もないし、誰かの役に立てる喜び、充実感はあるけど、本当にきついから、長くやると、心もからだも病んでくる、その割に給料が安いのも問題」と言っていた。だから、のりこさんは、介護の現場はいいレッスンになると言ってたのか。ひどい苦しみや犠牲者感が自覚される状況で、絶望的になってはじめて、助けを求め、癒しを求める気持ちになれるのかもしれない。

一方で自分は、苦しみを避けることを優先し、「どうせ努力しても、就職したら奴隷感、犠牲者感から抜け出せず、苦しむだけで、その鬱憤を周りの人にぶつけたり、部下や新入りをいじめたり、酒に頼ったり、また憎悪の連鎖が増えるだけだから。オレはもうとっくに知ってんだからな、両親が毎日そうなんだから。証拠はとっくに上がってんだよ!オレを同調圧力で奴隷にしようったってそうはいかないからな!他のわかってない、気が弱くて勇気がない、頭の悪い子どもたちは社会に疎外されるのが嫌で、見下されるのが怖くて、みずから社会や家庭の奴隷になるが、オレは違うからな!若いからってナメるな!」という感じで、就職せず、奇跡講座を選んだ。だから、社会に対する敵対感、疎外感、必死に防御しなきゃ感があった。まさに、デイビッドやけんたさんが書くように、獰猛で凶暴なビースト、恐怖と怒り、防御に囚われてるんだな。心の奥底で、社会は、生まれてくる無垢な被害者の赤ちゃんを洗脳して、映画アイランドやマトリックスのように、エゴの奴隷に仕立て上げる場所、ちょうど戦時中の日本人が、男の子を兵士にし、殺人兵器にして、女の子には、「いずれ兵士として戦場に送られる赤ちゃんを生産するのが女のつとめで、唯一の生きがい」だと洗脳したように、子どもたちが洗脳される場所だと思ってたから、デイビッドが、日本人の教育を半分ジョークで批判したように知覚されたとき、めちゃくちゃトリガー引かれる感じがあった。だから、「奇跡講座を人生の全てにしない」というJACIMの動画が、めちゃくちゃキツく感じられて、「じゃあ、この地獄のような世界で、奴隷になって苦しめっていうのかよ?苦しんではじめて、救われるなんて、カトリックマザーテレサっていうか、まさにおなじみのエゴ洗脳じゃないか!ワプニック博士は、イスラエルの静かな寺院に引きこもろうとしたくせに!」と思ってた。はっきり言葉にしてみて、客観的に見ると、どうせ自分は社会に利用され犠牲者になり、奴隷になるだけなんだ、社会や学校こそ洗脳が行われる問題の場所なんだ、と思ってた。自分は世界の被害者で、不当に扱われるんだ、というのを証明するために、知覚を使ってたから、自分が逆に、自分の希求を満たすために、他人を犠牲者にして、奴隷にして、自分は罪悪感を感じるべきだ、と思ってたんだ。のりこさんに、自分は働いたら奴隷にされて苦しむ、犠牲者感を感じる、という信念があると言ったとき、あなたは派遣社員にガイドされるかもね、と言われ、心底、「オイオイ冗談じゃねーよ、オレは救済されたいのであって、やりたくもないみじめな奴隷になるなんてお断りだよ。損だし怖いし嫌だ!」と思った。撮影ファンクションも、奴隷にされる恐怖を感じてた。大学時代、労働法の教授、つまり就職事情に詳しい教授が、「いいかおまえら、仕事で何やってもいいが派遣社員だけはやめておけ。例えばこないだあった殺人事件、犯人はクビにされた派遣社員だったんだ。アレだけはマズい。他の仕事を選べよ」と言ってたのに、ガイダンスで派遣社員?オイオイウソだろ、、死ぬわけじゃないけど、めんどくせーし、そもそも大学辞めた人が雇用されるのか?

どうせ見下されて、不当に扱われるのがオチだ、、と思った。

介護と派遣社員は、自分にとって「不当に扱われる信念・どうせ自分は奴隷としてこき使われて、挙句の果てに捨てられるに違いない」という、知覚の信念に向き合う、大きなレッスンの場所になるのかもしれない。いややっぱり怖い。できれば避けたい。

そうか、「社会の奴隷になるのは嫌だが、しんがなるハートや、デイビッドたちの奴隷になるならいいかも、エゴから解放されるチャンスがあるし」と思ってたのか。そのためなら、意欲が出そうな気がするし。