呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

聖霊への信頼

のりこさんたちや、リビングミラクルズの人たちを見ていても、

「この人たちはすごい。本当に心が強くて、真理や聖霊や自分個人を超えたものに対する信頼がすごい。自分の間違いを、謙虚に素直に認める姿勢も徹底している。自分には、到底マネできない」と感じてしまう。フランセスは、自我は比較が好きと言っていたらしいけど、正直ギャップを感じる。 

彼らに洞察や勇気をもらって、大いに励まされることもあれば、こんなの霊感や信仰からはほぼ無縁で生きてきた自分には無理に決まってる、住んでる世界が違いすぎると、無力感や絶望感を感じる時もある。のりこさんは、一瞬、0.5秒でいいから信頼と言っていたけど。

違いは何なのか?自分より少し長い人生経験から、正しい判断なんか個人はできっこないし、逆に、助けを求めるしかないのを痛感しているのか。

かなり驚くような、シンボルやサインを自分よりたくさんもらって共有しているから、神秘体験があるから信頼できるのか。

前も書いたけど、コースを始める少しまえ、大学の図書館でリチャード・バックの本を読んで感化され、もし、肉体たちが老いて死んでいくだけの絶望しかない、唯物世界が実は幻想で、物理法則以外の何かが あるなら、そうだったらどんなにいいかと思う反面、それはステキで美しい、人間の希望的観測、理想論にも思えるし、自分には何も確信がないから、どうか証拠を見せて欲しいと本当に強く祈って、数分後に完璧なシンボルが兄弟として現れて、リチャードバックの本も知ってると聞いて驚いて、心からの祈りは叶うって本当なのか、と嬉しい気持ちだった。あのときの同じサークルだった女の子には未だにとても感謝しているけど、コースを始めて、聖霊を信頼することはあまりできてない。 こんなこと起きるはずがないと、驚くようなサインもデイビッドさえ含めていくつかもらったけど、やはり疑念を感じてしまう。本気で信じるのが怖い。本気で信じて進んだら、聖霊なんて幻想で、希望的観測のファンタジーで、奇跡講座という唯一の救いが、実は嘘なのが暴かれて、露わになるんじゃないか?芸術とかスポーツで、本気で努力したら、自分の才能や適性の限界がはっきりと見えてしまうのが怖いように、

本気で信じて進んだら、奈落に架かる透明な橋に足を踏み出すインディジョーンズみたいに、幻想が崩壊して、絶望感に叩き落とされるんじゃないか、という怖さ。奇跡講座が反証されてしまう恐怖。イエスのガイダンスや教えがはっきり感じとれた、ヘレンはうらやましいと、何度も思った。強い霊感があり、ビルより聖霊との繋がりがかなり強いヘレンのほうが、聖霊を信頼できるから、ヘレンのほうがビルより先に進歩するはずと、ビルも考えていたと思う。輝かしい才能がある人にお手本を見せてもらい、才能がない自分は後からぼちぼちついていけばいいやと。あなたが真実であって欲しいと望まないことを、あなたに証明することはどんな奇跡でもできない、というけど、まだ、自分は心の底で、自我の世界で幸せになれるはずと、手放すには惜しいと思ってるのか。比較的若いうちに、高校生の時から、コースの教えとほぼ同じことを教えてくれる先生に奇跡的に出会い、コースを読んだことにないにもかかわらず、コースと同じことを教えるギブアップの会の師匠にも出会えて、不思議と、導かれるように段階を踏んで、いくつもの出会いに奇跡的に恵まれてコースに出会えたけど、自分にはふさわしくなかった、ブタに真珠だった、自分には聖霊を信頼できるオープンさ、素直さや謙虚さはないと、いつも思う。もっと、霊感があれば。素直な心の人間だったら、恵みを受けとり、進歩してはるかに変化していただろう。デイビッドたちに対して、あなたがたから、こんなに恵みを受け取っておきながら、情け無いけど、自分は疑念ばかりで全然ダメです。自分なりに努力はしたけど、あなたみたいな、大学を辞めて数年でイエスの声が聞こえた天才じゃなかった。という気持ちがいつもある。歯痒い。彼らにはできて、自分には全然できない。受け取れない。勇気もない。

ハリー・ポッターで、ダンブルドアの霊が、助けはふさわしいものに与えられると言ったけど、自分は出会いや機会に恵まれたわりには、ふさわしいものじゃなかったと、いつも感じる。どうしようもなく苦しみに追い詰められて、聖霊に頼らざるを得なくなるかもしれない。それならそれでもいいけど。