呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

平安のツール 最長版

平安のツールはひとりでしかやったことないし、不完全なやり方や深さでしかできないですが、とにかくやってみます。

①A知覚 ある人とコミュニケーションをとりたく思い、初めてメールしたことについて考えるとき、

B感情 分かり合えるかもしれない嬉しさと同時に、罪悪感、恐れ、自己嫌悪

と感じる。

C思考 なぜなら、自分 が責められるべきであるし、未来に厳しくはっきり自我に基づく考えや信念、目的を指摘され、間違いを白日に晒されたり、または単に嫌われて拒絶されることが起こるのを恐れているからです。

D信念 これらのことは、わたしが まさに自我の優劣比較思考にどうしようもなく同一化して、半自動的に誰かを自分以下や以上と見ることに囚われており、さらに、自分の孤独感や繋がりの不足感をあまり劣等感を感じさせられない、個性の違いが大きすぎない、分かり合えると思われる他人とのつながりや関係でなんとか満たそうとして、それが勘づかれてはっきり指摘されたり、拒絶されたり嫌がられるであろうことについて正しいことを証明しています。

E望ましい状況、知覚、出来事  

メールとか声とか、形のレベルでやりとりし、無防備に2人で平安のツールの実践など、コミュニケーションをとらせてもらえること、差異よりも、同じものとして分かり合えること、形のレベルがきっかけでつながりや愛を感じさせてもらえること

②AとBとCは、D 自我にどうしようもなく囚われたわたしは、欠乏感やつながりの不足感、孤独感に囚われていて、形のレベルの関係を欲しがり、傲慢で必死で、卑小で醜い、美しくない心の状態だから、愛されず、嫌がられ、拒絶されることについて、正しいことを証明しています。今感じていることが嫌です。今のわたしは、何も真の姿を見ていない可能性に向き合う準備が出来ています。癒しのプロセスの一部として、わたしはこの動揺という知覚(わたしが与えた意味)の向こう側にあるものと、心の内側の、両方を見る意志を持っています。

③わたしは、A ある人とのコミュニケーションをとることについて考えたり、B期待や不安、罪悪感を感じたり、C 相手や自分を責めたり、自我を厳しく指摘され、拒絶され、嫌がられるのを恐れたりしているときに、罪悪感を感じずに済む方法があることを学びたいです。

④わたしは、A、B、C、Dに対する自分の知覚が正しくありたいという欲求を手放します。その代わりに、わたしは幸せでありたいです。

エゴ(歪められた考え、視覚)を通して、自らの動揺の原因とその解決法を、自らの心の外側に知覚しています。投影で見るものは、とても現実的に見えます。その目的は、自分の内側から、わたしの気をそらすためです。

⑤わたしの動揺の原因とその解決法がわたしの心の外側にあるのなら、わたしには、本当にそれらを変える力はありません。わたしが投影(内側で見たくないものを外側で見ること)を用いることが、自分には力がないように感じる理由であり、C嫌がられ、拒絶されること が動揺の原因に見える理由です。

⑥Aある人とのコミュニケーションを考えて、B不安や期待や、罪悪感や恐れを感じて、Cわたしや相手を責めて、拒絶されることを恐れることは、D孤独感、繋がりの不足、自分は自我に囚われているから愛されない、真の帰属感や一致や愛を感じることもできない を信じた結果です。

⑦ わたしが誰か、または何かに動揺するのは、わたしが意識から追いやった信念が映し出されるからです。

わたしが世界の何かを責めて恐れるときにしていることは、本当の動揺や解決法を見ることへの(心で決めた)回避です。そして、自分や他人のイメージを好きに保つのです。このような心のトリックは、罪や恐れの位置を置きかえます。しかし実際には、動揺をもたらします。自分や他人や世界のイメージを責めたり恐れることは、わたしは身体であり、身体で成り立っている世界にいる限界のあるものだということを信じて、霊的な抽象である存在の否定が求められます。全ての動揺を手放す最初のステップは、わたしは、外側にあると思っていたものを、心の内側で見たいと思うことです。Aについて恐れるのは、わたしの罪悪感と恐れの原因と思われるC拒絶され、後悔したり、自分や相手を責める を引き起こそうとする別の試みに他なりません。

⑧Aがわたしが望んでいることと矛盾するとき、動揺することには価値があって、その行為を正当化できると感じます。わたしが経験したいのは、

E 無防備で、分かり合えるコミュニケーション、2人による平安のツール、心のつながりを実感できること

わたしはまだ、Dつながりの不足、孤独感、何かが足りない感

を信じているので、幸せになって、完了して、安らぐには、E無防備なコミュニケーション、ふたりでの平安のツール が必要だと思います。

これが欠如の信念であり、その結果生じた期待なのでしょうか。わたしにとって、これが心の平和より大事なのでしょうか。

⑨世界の全ては、良きことのために結集します。わたしが動揺の原因だと思っているものは、まったく原因ではありません。動揺するという選択が、原因を見ないことを選んでいます。つまり、分離や欠如の信念であり、心の中で今決めたことです。それは、過去や未来に原因があると思うことです。

⑩たった今欲しいものは、これらではなく、平和です。Dつながりの不足、孤独感、愛が足りない感の信念を問いかけます。わたしは、平和というひとつのゴールと再びつながるために、E望ましいコミュニケーション

を自ら進んで手放します。

⑪心の平和は、今行う決断です。わたしは、たった今それを喜んで選びます!罪悪感や、結果に対する恐れが可能に見えるのは、過去と未来に原因があると信じることに決めただけだからです。

わたしは過去と未来に対して自ら与えた意味を手放し、現在に心を開きます。わたしは解放されて、無実です。

⑫世界にあると思っていた自分の動揺の原因が、実は心の中で問われることのなかった信念と決断だったという気づきに感謝します。心の平和のために、新たに決断します。

祈り 願い 今あるがままではない何かへの願いが、あなたを神の平和から遠ざけ続けています。あなたが真に求めるものをもたらしてくれる唯一のゴールと再び一致するため、今、心の平安を受け入れるために、この欲望を聖霊に捧げる意欲はありますか?

 

言葉にして、書いて、平安のツールを最後までやったのは初めてだったけど、自分が何を望み、何を恐れていたのかがかなり明白になった。

やる前は、自分が何を望み、何を恐れていたのかはかなり曖昧でぼやけていたけれど、明らかにすると、それほど恐ろしくはなかった。

自分が自我の欠乏感から、不幸を抱えた個人レベルで分かり合えること(お互い同じ切実な悩みや苦しみがあるんですよね、ぼくたち同じだよね、共感して分かり合えるよね、みたいな)への強い希求から行動してしまい、個人間のコミュニケーション自体をつながりの不足感を解消する手段にしていたので、これが相手を密かに自分の目的に利用しようとすることへのうしろめたさ、罪悪感、自己嫌悪になり、

この事実をレッスン135にあるように一瞬で忘れて隠蔽してしまっていたから、

これがまさか相手に勘づかれて、バレて、明白に指摘されたらどうしよう、恥ずかしいし屈辱だし、またも自我に踊らされた、あーあやっちゃった感、自分の考えが自我に基づいていたことがモロバレに暴露されてしまう、それは嫌だというのと、自分の敵対的ではないにしても偽りの共感に基づく欺瞞的な、自我的な態度に相手が劣等感やプライドを刺激されたり嫌な気分になり怒り、非難されたり咎められたりしたらどうしよう、それはなんか嫌だし申し訳ないし残念だな、みたいな感情だった。嫌がられるのが怖い気持ちは、実は偽りの共感を目的にしている自分を嫌悪しているからみたいだった。

はっきり見ていくと、たしかにだんだんと恐怖は減っていった。また恐怖は出てくるだろうけど。