呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

彼氏彼女の事情と祈りの歌

カースティンさんのIFP動画から、孤独感から脱出するために人間関係を求めることについて気になっていて、自分が忘れないためにも書いておきます。

『奇跡講座マニュアル編』中央アート出版社 S-1.Ⅲ.6 

『ものごとや地位や人間の愛や、その他あらゆる種類の外的なものごとを求める祈りは、常に、牢番を仕立て上げて罪悪感を隠すために作り出されているのだが、このことに気づくのは容易ではない。』

高校の頃、仲の良い友人たちがアニメや漫画や映画をいくつか勧めてきて、それらは全て、スピリチュアルな映画だったり、奇跡講座の学びに文字通り完璧に役立つ作品たちだった。ディバイン・プロヴィデンス

その一つが、「彼氏彼女の事情」だった。TVアニメ版の監督は、エヴァとかシンゴジラ庵野秀明氏。

主人公の高校生の女の子・雪野は、プライド・優越感という快楽のために勉強やスポーツで必死に努力し競争に勝ち、イメージを良くするために外見をキレイにするのに余念がない。まさにマスクとPride・Pleasure・Attack。

雪野はそんな優秀な自分を誇りに思いながらも、ぐうたらな本当の自分を隠して生きている。家庭は平和で普通。妹が2人いる。

雪野の彼氏になる総一郎は、子どものころ親に捨てられ、Pople pleasingする癖があり、自分を育ててくれた義理の両親に恩返ししたり、気を遣ったり、または他人に見捨てられたり、出自を見下されるのがとにかく嫌だからという理由で必死に優秀な自分を演じている。生みの両親が極度に自己中心的で、甲斐性がなく、それがコンプレックス。いわゆる毒親

総一郎は、毒親と同じ心の醜さを自分が受け継いでいるのではないかという深刻な恐怖があり、そんな罪悪感と恥にまみれた本当の自分が表出しないよう、

マスクを使って、しっかり者の優しくて良い人を演じている。両親への嫌悪が自己嫌悪になっている。

雪野は家庭が平和だったせいかあまり深刻な性格ではないが、雪野と総一郎は2人とも成績優秀ゆえに生徒会に入り、一緒に仕事をしながら、マスクをかぶって生きている点を似た者同士としてお互いにからかいながら、共感しながら打ち解けていく。

だんだんとマスクが外れていくにつれ、

雪野はマスクを脱いで、素の自分をさらけ出して、ケンカしたりしながらもクラスで人間関係を築けるようになり、幸せになるが、総一郎は本当の自分を見せれば見捨てられるのではないか、マスクを外すのは危険ではないか、という恐怖に縛られる。

総一郎は唯一本当の自分を受け入れてくれる雪野に極度に依存するようになり、雪野が他の男と話すだけで神経質になり、他の男を睨みつけて嫉妬してしまう。両親から得られなかった愛情を取り戻すかのように、なんとか雪野だけは自分のために独占しようとする。

雪野と総一郎以外にもいくつか人間関係があり、少女漫画をまともに見るのははじめてだったせいか新鮮で、興味深かった。冒頭の教師のマニュアルの祈りの歌の文のように、兄弟が自分の幸せを左右する、自分の幸せの原因であるなら、自分が不幸なのは兄弟の責任になるので、怒りや嫉妬や恨みが正当化される。兄弟に罪悪感を隠しているので、自分の罪悪感は隠蔽できる。

最初は両親が総一郎を見捨てたことについて罪悪感を隠して、次は雪野に幸せの原因=責任が転嫁される。人間の愛は誰かが得れば、別の誰かが失う法則が信じられているので、常に対象を奪い合うライバルや敵がいることになり、やがて恋人が死ぬのを恐れざるを得なくなる。人間の愛やものごとを求める祈りは、全て神の愛を捨てた罪悪感を隠して隠蔽するために使われているという教えは衝撃的だったけど、たしかに、自分の車やペットや、大切な人を傷付けられたり、浮気されたりしたら、「自分の幸せを奪ったり傷付けたりしたことについて、兄弟を責めている」ので、無意識では、自分が愛を攻撃したことを信じていることになる。

「あなたはわたしを幸せにでき、幸せにする責任がある。だからあなたが私を見捨てたり、幸せにしなかったなら、あなたは罪悪感を感じるべきである。なぜなら、神を忘れたわたしは常に欠乏しており、深刻な状態だから。」ワプニック博士は、FACIMのMiracle Versus Magic      https://facim.org/online-learning-aids/excerpt-series/miracles-versus-magic/miracles-versus-magic-part-i/で、赤ん坊が泣くのは、自分は神から分離した肉体で、欠乏していて、深刻な状態であると言っており、それは心が分離を選んだことを隠して、肉体レベルに欠乏を投影して、しかも他人(両親)に不幸の責任をとらせているマジックであると説明していた。千と千尋の、自分を楽しませなければ、千尋の腕を破壊すると脅す赤ん坊を思い出す。自分も、同じことを身の回りで無意識にやっているわけで、自我の狂気を進んで認識する意欲を持つのは、やっぱり怖い。

でも、それをすることで、のり子さんがブログで書いていたように、結局は選択の余地がないということに気づけるのか。