呼んでいる胸のどこか奥で

2016年から奇跡講座を学んでいます。デイビッドはDavid Hoffmeister氏で、ワプニック博士はKenneth Wapnick博士てす。MWGEはコース学習者のための映画紹介サイトhttps://mwge.org/ です。

焼林ゴルフ(しょうりんゴルフ)

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https://youtu.be/Q4SxfJjAs24

アメリカのワシントンのゴルフ場で、

対岸の山火事をバックにゴルフを続ける人の写真。

デイビッドがよく「わたしたちが人生の中で問題を解決したり、

偶像や完璧な形を追い求めているときは、沈みゆくタイタニック号の

中で、イスの配置を変えようとしているのと同じことです。

タイタニック号からはまず脱出すべきであって、

その中で完璧な形や幸せを追い求めるのは間違いです。」

みたいな趣旨のことを言っていたけど、

このニュースを見たときは、まさに、

本当に大切なことからは目を背けていようとする

人間の象徴のように思えた。

自分がついゲーム配信を見てしまうときも、

これと同じようなことなのかな、と思った。

「焼林ゴルフ」は「少林サッカー」のもじり。

 

闇に光を当てる 闇を光に運ぶ

今までのZoomのミーティングで、これは言いたくない、

言える気がしない、ということがあった。

年末のミーティングということもあって、参加者の方が少ないのもあり、

信頼できる参加者の方々がきっかけをくださった形になり、

初めて他人にそれを話した。

自分の顔をPCのカメラで写しながら参加したのも、初めてだった。

恥ずかしくて、正直、ブログには書けないこと。

話してみたら、押し入れとか倉庫に何年もしまっていた、

古い感情とか記憶を初めて明るい場所に引っ張り出したような、

なんというか、地下に埋まっていたものに久しぶりに、

新鮮な風や日光が当たったような感じがした。

話す前は、話した後、後悔するかもとか、話すこと自体、無駄、

他人に恥や情けなさ、つまり弱みを知られて、損しかないのでは、

とも思ったけど、

他人に話すことによって、むしろ意外にも、他人に知らせるというより、

自分が自分に隠すのをやめて、

自分が自分の感情や知覚にはっきりと真正面から気づけた、

という感じだった。

あまりに嫌な記憶や感情は、あまりに嫌な感情だからこそ、

自分でも自分から、普段は隠している。

感情的な苦痛を味わうだけだから。

まさにそれが否認ということなのだろうけども、

信頼できる方々に話すという行為を通して、

自分が見たくなかったところ、思い出したくなかったところに光、

スポットライトが当たったような感じだった。

他人にそういうことを話すのは初めてだったけど、新鮮な感じがした。

赦しの実践て結局、普段は見たくない、思い出したくもない、

映画『リング』の井戸の底を覗いて、スポットライトをパッと当てる、

という感じなのかな、と実感から思った。

デイビッドかフランセスが、

あなたが他人に隠したいと思っていることは、

それを聖霊にも隠している、と言っていたのが、ある程度腑に落ちた。

目を背けたくなるような、醜くて汚いものを、

あえてスポットライトが当たる場所に引っ張り出してきて、

はっきりと真正面から向き合う、見るという感じになったけど、

その背後、向こう側にあるものを見通すには、

はっきりと真正面から見るしかないのか。

『神の教師』2007年書籍版 P232 にちょうどピッタリな文章があった。

 

 

のりこさんとあきなさんの記事とハルヒのエンドレスエイト ループ

https://blog.goo.ne.jp/noriko1026heart/e/85d135e1b71073eaedc2b7bc1531ce0e

のりこさんの真剣な気迫に圧倒されるような記事を読んでいて、

涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイトが強く思い出された。

のりこさんやあきなさんのすごい記事に対して、アニメの話を書くのは、

トンチンカンな気もしたけど、何度も思い出されるので書く。

ブログで書くと、何か、護摩だか何かで札や人形を焼くみたいに、

何か、溜まったurgeが解消されて消える感じがする。

ハルヒのアニメ二期で、エンドレスエイトという、

主人公とハルヒたちが高校の夏休みのある日を、

『恋はデジャヴ』みたいにずっと繰り返す、8話分ものエピソードがある。

時間にして映画1本分か。

同じ日の同じ出来事の繰り返しを、少し画面を変えただけで、

8話分もループして繰り返したから、

必然的に視聴者はすぐ退屈して飽きる。ウンザリする。

ハルヒは日本史上1番レベルにヒットしたラノベだったから、

テレビ放送では8週間分の、

この退屈なループにウンザリした視聴者たちから、

当然不満が上がっていた。

8話も同じ出来事を描くくらいならもっと短く短縮して、

原作小説の他のエピソードをアニメ化すれば良いのに、

その方が有意義なはずでは?8話はさすがに長いなと自分も思った。

のりこさんやあきなさんのループの記事

https://ameblo.jp/up4528/entry-12714785529.htmlを読んで、

わざわざ8話もループに費やされたのは無駄じゃなかったのかもな、

必然だったのかもな、と思った。

8話目のエピソードで、宇宙人に作られたロボットの長門という少女が、

主人公に、

「あなたは無限ループを全く記憶してないけど、

実際には、わたしたちは、何万回も同じ日をループしている。

涼宮ハルヒという女の子が、自分の願望を実現するために、

自分でも全然気づかないうちに、夏休みを無限ループしていて、

あなたたちはループにとらわれている。

ループを終わらせるためには、全宇宙を願望によって夢見ている、

ハルヒの無意識の願望を探り当てて、それを実現してあげるしかない」

と言って、主人公は愕然とショックを受ける。

主人公は、自分たちが何万回も同じ出来事を同じ場所で

ループしていることに、全く気づかなかった。

あきなさんのまた記事を読んで、少しハッとした。

状況がどんなに極端に違っても、不満や怒りや、罪悪感や、嫉妬や、

欲望や執着や、いつも同じ夢の中で夢中になってるだけ、

本当は同じ場所で同じことをただ繰り返してるというのが、

少しリアルに入ってきた感じがした。

ハルヒたちみたいに。

 

 

 

 

再配達の罪悪感 マツコの赦し

https://youtu.be/vhQi-435k9s

ゲイリーレナード氏の本を注文したら、

最初からポストに投函するように指示するやつを忘れてて、

配達が来たときにインターホンを聞き逃してしまい、

再配達に。

失敗感、罪悪感。で、マツコのCMを思い出した。

あからさまな攻撃ではないけど、

相手に再配達という微妙な犠牲を払わせる罪悪感。

比較的に微妙だけど、加害者と被害者を見てる。

16章の偽りの共感か。

 

ジョジョ7部とジーザス

f:id:ratchet0512:20211227143941j:imagehttps://youtu.be/m9SFR32PXdU

デイビッドが動画で、イエスの十字架刑について話していたとき、

ジョジョジーザスを思い出した。

高校の頃、同級生たちがコースの学習に役立つ漫画とかアニメとか映画

ばかりを突然紹介してくれるという不思議な現象があったけど、

その中のひとつが、『ジョジョの奇妙な冒険』だった。

初めてジョジョ3部の表紙絵を見たとき、

「こんな変な、露骨に奇をてらった絵で強引に目立とうとしてる漫画、

読みたくない」

と抵抗感を感じて読まずにいたけど、同級生に勧められて読んで見たら、

面白かった。

自分はキリスト教の背景はほとんどなく、聖書も全然知らなかったので、

ジーザスという名前がイエスと同一人物なのも、

高校くらいで初めて知った。

それまでジーザスは、外人が映画とかでDam it とかshitみたいに使う、

困ったときに、oh my godの代わりに言う単なる言葉だと思ってた。

ジョジョ7部は、

エスの「聖なる遺体」に宿る奇跡の癒しや贖罪の力を求めて、

主人公たちが馬で20世紀初頭のアメリカを旅するという物語で、

それまで自分はイエスの映画とか聖書はほぼ見たことなかったから、

エスの十字架刑とかの物語をジョジョ7部で見たのが印象的だった。

ジョジョの作者の荒木さんは、

wikiによると高校がキリスト系だったらしい。

ジョジョ7部の中で、イエスの十字架刑の物語が簡潔に漫画で描写されるという部分があり、そこで、ナレーションで、

「イエスは2000年前の人々に『新しい考え方』を伝えたが、

当時の人々はその新しい考えを受け入れることはできなかったので、

人々はイエスを十字架刑にした」という趣旨の文があった。

自分にとってはコースを始める三年前に、ジョジョ7部の漫画の中で、

エスが姿を現してくれた。

主人公の青年の背後にイエスの霊が現れて、

主人公に意味深な助言をしたり、

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エスはまだ霊として確かに存在している、

というジョジョの若干不気味な演出も、印象的だった。

ジョジョのイエスは、いかにも十字架のイエスという宗教的なイメージだけど。

 

 

 

父への憎しみと憐れみ

「仕事でも家庭でもゴルフやらでも、自分のデキる有能感、

個人としての強さ、他人より優れていることをひたすらとにかく証明して、

いつも他人を見下したり、間違い探しをするのに必死」

な父、ひどく傲慢で他人を見下したり、

他人のダメなところを見つけては大喜びする父、を見ていると、

最初は、憎悪や嫌悪、何で母はこんなのと結婚したのか?

母も狂ってるからか!と、怒りや憎しみや不満が湧いてくる。

ただ、父の人生や過去、現在を思うと、憐れみを感じる。

祖母や祖父は、およそ、優しい親ではなかった、らしい。

なんとなく、想像はつく。

父は、戦中生まれの親の家庭で育った。時代も昭和。

無条件の愛や優しさは当然なく、メンタルヘルスなんて言葉もない時代。

学校の先生が、子どもに暴力を振るうのが当たり前だった時代。

そんな時代に育った父は、長男として、教師として、

公務員として、自分の優秀さを夢中で建設しつつ、

証明して生きてきた。

父は、職場でいじめっ子のモンスターペアレントとの確執や、

後輩教師へのパワハラやらで、問題が重なり、

学校を転勤することになり、担任のクラスを受け持たせてもらえない。

昭和の価値観で育った世代の父が、

猛然と優秀な教師としては活躍できても、

自分が一番、の傲慢な態度が令和の職場では上手く行かなくなった、

後輩とも空気が合わない、

いかにITの知識が優れても、もはや、

時代に取り残される側になったのが、ありありと感じられる。

自分が勝ってなんぼ、自分の強さを証明してなんぼ、

という重い鎧を纏って、ずっと生きてきて、

それ以外の生き方をまるで理解できず、

「他人に頼る、弱い、情けない生き方」

と、見下すことしかできない父に、ある種の哀れみもある。

そういう世界観しか、父は教えてもらえなかったし、

今更、全く違う生き方や価値観を学ぶのは、

父にはあきらかにキツ過ぎるのもわかる。

怯えた犬のように、必死に自分を強く見せて、戦うことしか知らない、

悲しい心。

かといって、父に優しくすると、なんか自分が一方的に損する気がして、

父に、優しさを出し惜しみしてしまう。

自分だけ一方的に攻撃されて、異常に見下されて、

こんな傲慢で醜悪な人間に、優しくする必要なんかねぇよ、

と思ってしまう。

しかし、愛を求める声なのか。

譲れない思い

家族や友人でも、他人でも、

過去に自分が被害者になっていたときも、

自分が加害者になっていたときも、

「自分や相手が肉体的・心理的な苦しみを味わわされた。

だから、相手や自分は責められて当然だし、被害者が怒るのは当然、

被害者には、怒る権利が確かにある」

という、固く握り締められた、確信というか信念がある。

これだけは絶対に譲れない事実だから、

自分は相手を責めたり憎んだりする正当な権利があるし、逆に、

自分が相手に苦しみを与えた場合では、

自分が罪悪感を感じざるを得ない、という。

加害者と被害者、肉体がリアルだ、という見方が、

絶対に揺らがない固い事実だ、という、強い握り締めがある。

これだけは絶対に譲れない。

これだけは足元の固い地面や岩盤のように、底にある厳然たる現実だ、

という感じ。

これが障壁の表面なのか?